(…)痕跡の根源を設定するこういう仕方から、書字が伝統的ないし慣用的な意味では声の「あとに」来るのだが、それと同時に声に「先立ち」もするという事情が了解される。
しかし、こうした互いに先行しかつ後続しあう書字と声は、形而上学と日常的なものとを別つ線を引き、そしてその線をまたいでいるように思われる。おそらく書字と声はその投影された線を測量するのに役立つものとみなされている。しかしデリダとともに日常的なものは形而上学的なものの「効果」だと言うことは、「もの自体」が知識の対象の「原因となる」といった返答を高級な仕方で言い換えているように思われる(カントは原因の概念を対象間の関係に用いるよう制限したのだが)。デリダにとって形而上学的な声は自らを破裂させることで自らの根源を確立する。ウィトゲンシュタインにとって日常的な声は形而上学的なものから回帰することに自らの根源を見いだす。デリダの描像の難点は、根源へ通ずる「道」がまったくないという点である。ウィトゲンシュタインの描像の難点は、回帰するべきその「元の場所」がないという点である。[スタンリー・カヴェル『哲学の声』]
(…)デリダはオースティンを「ときおり真理の価値に代えて力の価値を置き換える」と解釈するが、それは実証主義に対抗するオースティンの議論を真っ向から否定し破壊するものだ。なぜならオースティンの議論は、検証可能な陳述文がそうであるように、パフォーマティヴな発言も実在(何らかの事実的諸条件)との対応を保持するという考えに基づくものだからだ。要するに、パフォーマティヴ理論におけるオースティンの狙いは、まさに「真理の価値」を保持する点にある。[同上]
(…)明らかにデリダはこう解釈している。すなわち、意図およびそれと同種のものをもつことが「その他の『状況』のなかの単なる一種ではない」というオースティンの注意は、パフォーマティヴの創設にとって意図がいっそう「重要で」あることを示唆し、形而上学的な意味もしくは論理的な意味で意図が何か根本的なものであることを示唆するものである、と。だが一方、意図の要請はある意味で(形而上学的な意味でといってもいいが)あまり重要ではなく、まさにそれが理由で、意図の要請によって、知的なあるいは道徳的な堕落の生じる余地(よく知られた諸形式)を与えてしまうというのが、オースティンの警告なのである。
オースティンの設定する区別はこうである。パフォーマティヴの初めの事例であるが、例えば結婚式で私が「誓います(I do)」と言うとき、たまたま(その他の)状況が実効的に現前していないならば、その行為(パフォーマティヴと仮定された発言)は実効的ではなかったのであり、それはまったく遂行されなかったのである(たとえば儀式をとりしきっているのが船長ではなくパーサーであるような場合)。他方、後続の事例では、私が(標準的な状況において)「私は約束する」と言うとき、私が約束を守る意図をもたないとしても、たとえそうであったとしても。私は【たしかに約束をした】のだ(オースティンは「私はたしかに約束をしたのだが、しかし……」と表現している)。(オースティンは、私が「初めの事例」と呼んだものをローマ字のAとBの条項に記載し、「後続の事例」をギリシア文字Γの条項に記載することで、この違いを明示している。)これは、パフォーマティヴ分析の「組織化の中心」には意図があるとする見方の逆であるように思われる。というのも、後続の事例から明らかなのは、ある意味で、パフォーマティヴというある種の大範疇においては、パフォーマティヴな発言が実効的であるかどうかに関し、意図が非本質的であるということなのだから。[同上]
(……)ある種の哲学の学会が、くだんの___論証的である、聴き取られるものである等々の___発表(コミュニケーション)のコンテクストであることを知らされたからといって、その情報は多義性(ambiguity)を縮減するであろうか。むしろ多義性があるからこそ、確定的な(規定可能な?)複数の解釈が競合するということも可能なのではないだろうか。けれども哲学者を招待して論証形式を備えた発表をさせたり、対話にかかわりあわせたり、対話を追及させたりすることは、まだ十分に確定的でも多義的でもない。それはたぶん曖昧な(vague)なだけなのである。また知りたかったのはコンテクストではないか。その発表(コミュニケーション)がフランス語による哲学の学会においてなされ、テーマは「コミュニケーション」であり、カナダにおけるしかじかの団体が主催した等々の事実が知らされれば、たしかに何が話題になっているかは明確になるだろう。だがそれは多義性が縮減されることによってではない。[同上]
(…)ウィトゲンシュタインにとってもオースティンにとっても、意図とは、何か外的なものの不在を埋め合わせるような内的なものなのではけっしてない。意図は外的なものに対して境界線を引く。信号機のポジションを操作することによって発信内容を変えるような場合であれば、意図は主要な役割を果たすことができる。しかし、意図は___つまり、そうした役割を果たした【その】意図は___、信号機のシステムを確立したり、ポジションやポジションの意味を規定したりすることができない。信号機の制度が存在しないならば、その種のいかなる意図も明文化することはできない。いいかえれば、コンテクストとは、まさに、意図のようなものが(取るに足らぬ存在でありながら)大いにその役割を果たすことを可能にするもので【ある】。それゆえ、意図的になしうることを、不用意になすこともできるのである。おそらく、約束をするという行為はその種の行為ではない。[同上]
(…)オースティンはコンテクストの忘却を嘆き、そのつど絶えずそれに注意を喚起しようと努めるが、そのさい彼は、コンテクストやその忘却に対して系統的な説明を与えようとしない。[同上]
(…)懐疑論の脅威、そして懐疑論から帰結するもろもろの学説は地盤を広げた、あるいは、広げることをすでに完了したのだ。とすればこの否定的な動きを哲学的に追跡しないでおくことは、それに幻惑されることに等しい。同時に、私にとって、オースティンの不滅の価値は、哲学の非現実的な問いがもつ【おぞましさ】を明らかにしようとする点にある。この仕事は、私にとって、オースティン以後、日常的なものとの交流のなかに起源をもつ。[同上]