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民主主義のシニフィアンと表象代理が再現=表象と二重に用いられるメディアの壊変

メディアが芸術の「娯楽商品」であるというのと娯楽としての商品がメディア的なローカルの言語を持つことは同じことなのだろうか。メディアは「隣人」と「もの自体」との関係をどのように地方-共同体のように繋いでしまっているのか。トランザクションサーガの構築と違って見かけが「それ」について書かれたものの問題を政治的ディスクールの有料制で蓋をすることができるという構造に関わっているのだと思う。というのも、もし芸術の「下位集合」が芸術の「純粋空間」に対して有料でなければならない享楽の負債を隠し持っているとするならば、それはある種のカント的なクライテリアから質的な嫌悪を刑罰のアンソロジーとして持ち出さなければならない政治的必然性が再現=表象の技術になるからである。しかし性的な享楽が刑罰のように映像として表現されることと性的な犯罪が動物を虐待することのように人間を虐待する映像を表現と呼ぶのは別のことであるように思われる。それは同類性への憐れみが人間的連帯の絆を形作っているという主張であり、それがどうして共同体的な排除と「性的に」区別されるのかまったくわからないからである。性的な虐待は表現で公開されなければ「創作物としての虐待」でないならば動物虐待的な表現が公開されれば虐待として動物の権利を保護すべきだというのだろうか。明らかにそれは善の保護を「誰が」実践すべきかという問題を引き起こすと思われる。それは視線の主体でしかありえない。動物虐待はよい表現ではないということから性的虐待の表現は禁止すべきであるという主張には距離がある。問題は性的虐待の表現は享楽をもたらすから動物虐待と違ってそれは見てさえならないということが動物虐待の「道徳的自我の」快楽だと言わせているのではないだろうか。精神分析が倫理だと言いたいのはこの見てはならない次元で享楽を規定することが性関係の不在を現勢するからであり、性交関係が「存在している」と語ることは構造としてあり得ないからである。したがってポルノが消費する主体に他者の満足の欠如を与える限りにおいて性の規制が行われると言わねばならないのであって、ポルノが満足すべき性衝動の攻撃性を代理するから禁止されるのではないことが問題なのである。だからポルノではなくて性的享楽の商品がものの座において尊厳に高められなくてはならないのであり、それが悲劇的だということが性を視線の美から男女の語りに引裂くのである。これは恋愛物語と違って羞恥心によって侵犯の欲望の座から容赦なく善の道徳性の幕を引き下ろさなければならない。

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