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ダークスターサスペンションの断食芸人

嘘をつかずに真実を言うことができる語りの水準と真実を言うことが嘘を広めることに加担してしまう場合の真理の二重詐欺の構造。一般的な考えではあるAに対して非Aを言うことはそれに反対するという意図を含めた言説の発信という説明として真実の議論の地平が与えられる。例えばある状況に対して「これは〇〇だ」ということはそれが間違っているにしろ正しいにしろ何らかの意味で語り手の意図を反映する構造として解釈の説明が受け取られることになる。それに対して批判的な語りで反対することは、そのAに賛成しないための議論として意味の構造が与えられることになる。この議論の前提となっているのは語り手の意図の受け取り方が何らかの意味で主観的な意味の構造に繋がりうるような内容として真偽の基準が持ち出されているということが共有されることを双方が目指している、ということである。つまりどちらか一方に意図の歪曲を確信犯的に構造化するような語りを意図として反映させようとする場合、Aの反対が非Aの賛成という議論にならない場合がある。この主張は「すべての真実は黒か白かで決めることはできない」というような共有性の前提を確認することで説明されるが、意図の歪曲を目的にしている場合、それは口実であって、事実内容の真偽を確認させる基準を論点からずらして個人的な心証の水準に問題を移行させることで、その意味の構造に客観性を無効にするような意図を含ませようとする。ある水準の議論の真偽を確認しようとしているのに、「我々は全能の神のようにすべてを知っているわけではない」とか、「この議論はもちろん各人のいろんな解釈に委ねられて、言論の自由を守っているのだ」という風に返される。そしてその論理を突き詰めようとすると、「人格的な批判は悪いことである」という論点から「客観的に」個人攻撃をしている個人からの防衛という法的議論に語りの前提をずらして法的な脅迫を意味の構造化に入れるのである。もちろん個人攻撃をすることの判断の是非を相対化したいのではなく、個人攻撃と受け取られる言論の前提は何かを確認したいという共有性を持ち込もうとすると、それは中傷の口実のための意図の歪曲だ、という風に解釈の自由権を行使して論点をずらすのである。このやり方は社会構造の言論の抑圧性に対する労働の実践と客観的に重なっていて、客観的な議論の共有という観点に現実に対する無関心という別の状況的な心証が加えられる。これは現在の社会状況のひどさを無視するときにはもちろん逆のやり方で用いられる。どちらの言い分が間違っているかどうかはおいておいて、その言説を構築的な再現から構造の客観性を共有的に前提として確認するという作業をメディア的なネタとして消費するという矮小化によって立場の語りに賛否を還元する要求が増幅されて、それを匿名のニュースメディアで議論の共有として数値化するというトリックで個人の自由を確保するという安全保障が反復される。ケースバイケースの確認を意見の語りの意図に構造的に還元することで、ある論点の正しさがあると同時にその主張の前提の共有には間違った意図が反映されているという「偶然」の観点を面白さという消費的な基準に訴えることで流してしまう。すべてがそうではないということが、抑圧の断念性として歪曲されることで、意図の増幅がなされ、それが社会的な評価の賛成票になってしまうというどっちもつかずの状況でそれらの言説の意見を無視して自分の立場を述べることは「独裁者の芸人」として認識され、興行者の喜ばれる方が選択されることになる。

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