旧帝国日本と中国が対立したままで歴史の戦争責任を叫び続けることで、自分たちが占領に加担していることを無視し続けて、アメリカに批判の味を教え込まされた勢力に対して責任を負うということは、明治日本のイデオロギー的表象を意図的にずらして江戸の平和的表象から抜け出す経済的な循環操作をプロパガンダの平和的表象に合わせる必要がある。なぜなら旧帝国的表象を意図的な軍事的体系性だと教育的に刷り込むことで自分たちがそうでない最初の世代として戦争責任の問題を占領の転向として組み込むことで、権利の平和性を経済的な協力関係として構築するという資本主義ブロックが確立されるからである。ということは、反中であるために必要なのは、反共ではなく、自分たちの金融資産が通貨として管理され続けることであって、そこに自衛隊の軍隊的意匠が憲法で正当可されるかどうかの問題とは無関係である。だから反中であることは反中を非難することで、アメリカに対抗したままで他国の軍隊を応援するという政治操作を敵国のプロパガンダにできるのである。これはもちろん「実際に」中国に反発するという意味を何も含んでない。もちろんプロパガンダとは対抗規定として批判されるための情報網であって、マインドコントロールをする用の宣伝文句とは別に存在する。そもそも中国との終戦を可能にできるのは、「敗戦国」の皇系であって、「象徴天皇」ではないからだ。そしてそれは沖縄と核攻撃をアメリカから奪還するという暴力なしには実現できない。平和憲法を日本の憲法として措定したいなら、占領と転向の系列性は金融的な補助が戦後の復興に原発の「平和利用」として機能した客観性を剥奪する必要があるはずである。その口実を政党に押し付けるのでは、自民党が誰かのせいにできる嘘をつき続けることで、国民に安心と信頼を与えるという口実で、文字通り犠牲者を神格化することにすぎなくなる。