日本で地方自治が民主主義的だ、というのは日本の国会議員が表現の自由は憲法に保障された基本的人権だ、というのと同じ、占領軍によって教え込まれた内容を繰り返しているだけに過ぎない。それがたまたま日本の祭祀律令制に強く矛盾していないだけにすぎない。だからそれの矛盾を原理的に突いて表現の自由が日本の社会体制ではこんな風に誤解されてますよといってもそれを是正する論拠は存在しない。仮に裁判でそれが言論の自由への侵害だと認められたとしてもそれはそうだというに過ぎない。もし地方自治と原発招致のような占領体制と律令的な擬制が完全に矛盾するような要求が生じたらそれを民主主義的と呼ぶことはできず国民的と言い換えるに過ぎない。これは五輪招致にも多かれ少なかれ言える。そして「表現としては」人々の憲法の自由を侵害しているのだという事態が生じたときそれをアイロニカルな裏切りとして自治の要求を政策として掲げることはできる。それはつまり日本の体制であるシステムに言論として組み込まれて、「改革が行われた」、という主張になるだけなのだ。これをある個人が自由主義を信じているとか社会主義を信じているとか腑分けするのは単なる国民的な職業選別である。天皇制エクリチュールと皇室の関係も同じである。皇室が自分たちのシンボルを台風の水害やウイルスの感染などで意図せずに裏切ってしまった時、それを補強するかのように市民の声や政治的批判、文学的な実践による歌唱の感情的な独白などが語られるがそれのどれ一つとして占領的な事態の在り方に対する本質を構築しているわけではない。だから他者である語り手に自分の批判者の本質を意義の反転として機能させる虚像を倒錯的に映し出して、それを自分の宛先として誤配させるように象徴を循環させることで、その実践に「偶然的な配慮」を持ち出して、自分たちの自由を制度から脱構築する憧憬性が畳み込まれて内在化する。これを政治というのなら、政治というものは双極的な重層決定としてしか存在しないと言えば言える。だがこれは上部構造についての象徴の見識を意図的に理念的配置の歴史性に還元する方法としてニュートン的な時間が使われているにすぎないのであって、金融的な操作や宇宙的な原理の相対時間などを考慮に入れるとすぐにそれは幻想の主観的な構造化にすぎないとして排除してしまうような議論である。もちろん宇宙的な構造化に幻想としての主観が入り込まないと言いたいわけではない。しかしそうでない場合をどう考えるのかを上部構造という概念は何も教えてくれない。これはデジタル技術の仮想フォーマットを構想するうえで根本となる障害だ。何が上部構造であるかを集団的統計と主観的幻想で区分するというのはインタラクティブという概念を完全に無視することに繋がる。何が接続的な幻想で何が集団としての持続可能な動機なのかを表現の自由というスペースでしか主張できない。だから金融の集団的な持続を意図せずに裏切るという行為を遂行することで世界経済の個別的な動機を保存するという選択が統計化することになる。これは死では成立しない。が国葬では成立する。そして表現の自由と接続可能な幻想と集団的な持続の律令体制が一つに集合するのも国葬というイベントを意図せずに裏切ることで遂行される民主的な自由だ。そこに本来的に選択決定権などみじんも存在しないのにそれが反対という形をとること自体がトポロジーなのだから、もちろん政治的立場としては党派を統一教会の象徴的な法として詐欺行為を国葬するうえで放射能汚染の立場から賛成という「フラクタルな」議論をすることが有用になる。これは国葬が初めから歴史の偽造というシステムとしてどのような動機の死者も国体の本意として「反革命」という立場の神国性を表明するための手段なのだから、憲法で保障されていようといまいと、それが政治的暗殺劇の政教分離という革命で統一された宗教性の権益を意図せずに裏切ってしまう構造化を「真実の虚像」として構築するべきなのだ。