これから語る言説はシニフィアンのシニフィエを意味の脱色された差異として流動化させ続けるシステムについてであり科学的実践の正当性の帰納ではない。もしワクチンの個別的な死の危険性より集団感染の医療麻痺の方の死者の増加の方が享楽の知の生産としてより積極的に「魅惑的」であるとしたら、天皇制のエクリチュールでは祖神の免疫の寿ぎがワクチンの犠牲化の分身に打ち勝つ言説に個人の差異を導入するための「自由」が存在することになる。この場合象徴的にはアメリカから輸入されたワクチンが金融操作の手段として利得を魅惑の見掛けにすることの代価として天皇の祈りがワクチンという「犠牲化の異物」に免疫として自然的に排出される「普通の」身体として「人間化」されることに超越性があり、その超越性のコードが「共産主義」という科学のシニフィアンの集団操作に対抗する「民主的な」儀礼スノビズムの享楽実践ということになる。この政治的体制に関する二極化はジャーナリズムの真理と官製報道の虚偽という形で再生産され、金融操作の犠牲にワクチンの接種反対で対抗する党派政治の分身と、戦争被害の拡大を大局的な歴史的追及という集団的権利の抵抗から個人の差異を要求する言説配置として「民主主義」が「共産主義」に対立することになる。ここで事実に対する虚偽のコードの報道が個人的に暴露されることは本質的ではない。むしろ個人の価値観に基づくSNS拡散の実践が「ウイルスに対する抵抗」という集団的実践としてワクチンという分身の犠牲の共同的な操作に打ち勝つことが問題になっているからである。もしワクチンが感覚の魅惑実践という機能から流通するとすればそれは虚偽だろう。しかしワクチンが「民主的コード」で実践される魅惑的な享楽か否かで考えるとその操作は「共産主義」的なのである。したがってワクチンという言説は祖神の「太陽熱源」の感染に対しては祈りの実践として集団化されることが「慈愛」であり、その犠牲に「共産主義」の「粛清」という隠蔽の象徴を差し挟むことになっている。この問題をジェンダーのコードに翻訳するとAV女優が職業的に憲法の保障から「象徴的に」外されることは「犠牲化」だが、AV女優としての人間が男性に差別をするのは「欲望の魅惑の対象」なので男性に「人間としての」差別をしないAV女優だけが「真の」AV女優として差別的でないという見掛けの実践の詭弁と等価になる。もちろんそれはキャラクターとして消費される「AV女優」という商品であり、それが人間であるか犠牲者であるかどうかは性的身体への毀損が感染であるかどうかでしか決まらない。もちろん現実のAV女優が差別的であるかどうかは個別的な問題であり、それがAV女優という職業に基づくかどうかは絶対ではない以上、法の超越性は必然的に天皇制のシニフィアンの差異を超える。問題はその超越性は「盗みの享楽」として犠牲者に投影されるかもしれないということであり、それが外交問題の規範的な「民主化」としても有効なコードになる。なぜなら「性的な魅力が盗まれている」のならそれは「共産主義の技術的コード」のせいにちがいないからだ。国の範囲が天皇制の語りの基準で内在化されるのなら身体の外部性が集団的に倒錯であってもまったくおかしくない。たとえば天皇制でない外国で集団感染が起こって、それが自国の感染と比較されるのならエクリチュールの魅惑的には「自国の感染が拡大したのは他国が技術的な操作を行ったから」ということになる。そのワクチンのシニフィエが予防を怠った故に感染が拡大したとか医療が麻痺したとかは無関係なのである。そして問題はそれが「民主的コード」であるか「共産主義的コード」であるかという差異の情動性で人間らしさの準拠が分身になるということにほかならない。