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螺旋崩壊の貨幣

貨幣を貨幣で交換しても価値は生まれないし、労働を技術的に評価する投資としての資本にもならないということをどのようにして偽装の価値として発行するのか。労働についての政治が無視している担保を金利の上げ下げでマーケットが景気に反映する数値として話題にすることによってではないか。もしこれが価値体系として共有されているのだとしたらアベノミクスは成功していることになる。というのも経済についての話題が現在の政治状況の閉塞と因果的に関連付けられて刺激策になるということに金融緩和の意味があるからである。もちろん相関している事実があるということは因果関係があることにはならない。しかし常に終わりを告げることで政治的批判を沸き立たせて言説の流通が循環しているとしたら価値の交換には全く役に立たないが、人口移動それ自体は心情の流通として労働の雇用に役に立つということが観光事業も含めた感染の拡大でなくてはならない。つまり詭弁を詭弁として逆説的に利用しつくすことが貨幣としての信用経済になっているのだから、演出としては崩壊している現象それ自体に創造のステータスが存在していることになる。「普通に考えれば」政権のせいである物事に付け込んで言説を割り込ませてきた人々が、占領政策に加担している現実をエネルギー政策と放射能汚染の安全性の詭弁で覆いつくすことで外交的な規範を実践してきたのだから、それを終わらせるのに「普通の思考で考えれば」それを解決することができるというのは利益だけ得て、後はとんずらする人々の態度と何も変わらないのではないか。死者には二重の意味がある。巻き込まれただけの犠牲という役割と無関心さに積極的な意味を持たせた結果として日常の価値を交換するのに怠惰であった硬直だ。それを戦死者の集合体に放り込んだらどうなるか。もちろん感染者の死は象徴的な戦死の奉納と全く変わりがなくなるだろう。金融操作の購入が崩壊の螺旋を巡回した結果として。

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