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感染を葬送する宗教的でない祭儀について

国葬をやることが国民に対してメリットになるかどうかという文脈で云えば国葬にメリットはない。しかし国葬をしなければならないかそれともした方がいいのかという選択の問題だとすればした方がいいのではなくしなければならないということになる。なぜだろうか。それは日本の宗教的な祭儀の曖昧な地位にある。教えられる宗教的実践と違って教育勅語による「国家神道は宗教的ではない」かつ「神社や寺院に献金や援助を行うことは民族的アイデンティティへの忠誠の表明である」という戦前の皇国規定を戦後憲法が戦死者を奉ずる靖国神社による象徴天皇の憲法体制の民主主義の防衛に統一教会として政治参加するという規定が接ぎ穂される場合、この政治的献金は「宗教的ではない」ということが重要であると思われる。さて国葬の「宗教的でない」意味において、五輪などの天皇による祭儀の招致や外交への「宗教的でない」投資および献金、そして「宗教的でない」学園に対する援助などを憲法規定で正当化するためには国葬を行わざるを得ないからである。なぜなら国葬だけが「宗教的でない」献金に対する弁明と(死後の)裁判を行うことができるからである。当然これは天皇を戦死者の奉仕から解放するという禊にならざるを得ない。一方で国葬を行わないという主張は、憲法を「宗教的な自由」として行使しつつ「民主主義を防衛する」ためのあらゆる手段を法律に違反している「宗派的な行為」に対して断罪できる権利を手に入れることになるからである。もちろん論理的に考えて国葬反対派に妨害されたことで国葬が行えなくなり、自分たちは仕方がなく憲法の自由のために秩序の整除を「感染防止」のために行使するという名分を通すとなれば、それは天皇が感染の象徴的意味であり、その「非宗教的な」祭儀において、葬送されるのだということを「科学的な意味」で行使することになるから、もちろん「国葬」を実行することになるだろう。もっと生物学的で非歴史的な実体化として。

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