(…)戦争間、参謀本部相手の軍部と政府とのいろいろな折衝があるが、これの勘どころというのは、軍部は作戦上の要求だといって船を要求する。そんなことをしたら国力を維持できないじゃないとかと主張する政府との船を巡っての争いであったということができる。これは私ども「台所」の立場にいたから、まさに骨身にしみているわけである。
(…)この「決心」が性格化して、すべての判断が一途に極端から極端へ走り、しかも一度決定すると遂行する。変更や中止は敢えてしないのがおよそ誰でもの習性となる。
日露戦争から得た血の教訓は「旺盛不屈の攻撃精神」と「必勝の信念」だった。「精神によって勝つ」。「寡を以て衆に勝つ」のも精神にあるのだ、と。攻撃精神即ち必勝の信念が、極端に習性化されて、動かし難いものになっていた。
この山中さんのお考えは説得力があると思う。私はよく理解ができた。私は第四章で辻政信さんや服部卓四郎さんなどの陸軍のエリートを批判したが、山中さんのこの言葉を重ね合わせるとお二人の性格がよく判るとともに、ほかの多くの陸軍エリート将兵たちの、唯我独尊ぶり、無軌道ぶり、戦場での硬直した考え方などの原動力がこれであったのだと理解出来たような気がする。
尚、この稿の初めの、「幼年学校出の首相が…」という文句は、誤解を避けるために、山中さんの原文通りに述べると次の通りである。
「米国政府の対日経済圧迫とABCD包囲陣を以てする威圧的態勢、特に最後の「ハル・ノート」が交渉決裂を催促した明白な挑戦に対して、日本政府が応戦の決意を断行したのも、東条総理の性格が余儀なく禍いしたものだと私は思わずにはいられなかった。しかし当時の陸相と首相が東条さんで無かったとしても、陸軍の、殊に幼年学校出の誰かが、首相である限り、皇国日本の顔に泥を塗りつける屈辱的交渉を成立させるよりも、「清水の舞台から目をつぶって飛び降りる」決心をしたであろう。宣戦の詔勅が放送された時、横に立って咽び泣いていた東条英機その人の心境も判るような気がするのである。」
(…)そこで田中は再び私の処にやってきて、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふことであった。それは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。
こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へているが、とにかくさういう云い方をした。
それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職した。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると言ったので、軍法会議は取止めということになったと云ふのである。
田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。
かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを真に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。
この事件があって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分自身が反対の意見を持ってゐても裁可を当たへる事に決心した。」
天皇陛下の独白録の一番初めのお言葉である。
(…)これが満州某重大事件のあと始末で、本当に大佐、中佐クラスの人たちが団結をして、内閣をつぶし、元の長閥の親玉の田中義一に反抗して、遂には死なせてしまった。こうしたところから陸軍はおかしくなってしまったと私は思っておる。