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聖がひじる

 精霊によりて奇跡を興す>>>星辰でなんとか>>>術とほかで、星辰をどうかするものとしてのヒジリ。ただ、「小童(ヒジ)」といふ部落の名前は、ヨリマシとかを産した関係での呼称と言ふ説がある。
 しかもヒジリの方がよく拝んでゐる十一面観世音は、8+3なので具現化を司る東とか識別コードがブルーとかの木を担当し、あーうー。
弓弦のリペアをするのは坊さんならしいのだがそれをやる「つるめそ」はその辺で「犬神人」と書かれる。 本居内遠『賤者考』に、高野聖は高野聖なのだが、犬神遣ひ、飯綱使ひを纏める「術者」聖天供なんとかや他を入れた「犬神」の他に、「つるめそ(弦売僧)」のカテゴリで鉦叩きがある。

 聖 は つま先立ちで神の御言を聴く者としての聖者の形(白川静説)
 観る者の上に神の音なふを聴く者がゐるってヒエラルキーは汎世界的だと思ふけどなぁ。知恵の実を食べた直後の原人アダムが神の音なふを聴くと言ふ描写は神々しいものだと言ふ説はある。あっちのはラッブーニの前にホーゼーとかローエー(羊飼ひって牧師!!と「観るもの」の意)と言ふのがあった。あまりさう言ふカストを唱へる人がー
 白川静説で、ヒジリは初期、すめらみことを指す語であったが、後に仙、仏教徒になり、高野聖とかになった。南方熊楠は『岩田村大字岡の田中神社について』(南方熊楠全集第六巻p126~)の最後の方で、ヒジリと同じくSageの関係が、香具師とか産婆とか他のおねいさんもさす語になったと指摘してゐる。アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』でサルビアを「Sage(サルビア)」で書いてて、邦訳の方が原典に近いなぁとかでなくてかなりもやもやする。記事はサルビアだからサルヴァトーレとかの関係がどうのなんだけど。

 柳田国男大先生の、ヒジリを日者=日知りとする説を享けた南方大先生が、ヒを知るものが大変偉いので、「聖」の字へ星辰つうか太陽の運行を知る者の意のヒジリを当てたと。(南方『岩田村大字岡のなんとか』)
ヒヲキ(日を招くでいい筈)としての日置、日下(くさか)はいいや。

 ヒジリと言ふ呼称は、後いろいろあって、鉦打系のヒジリと高野のヒジリができた際、「普通のヒジリ」へ忖度して時宗系の鉦打が被慈利、高野山系は非事吏とされたさうである。「かうやひじり」はタガメの異称でもある。
 折口信夫大先生は、『ごろつきの話』で、あー、魔道戦士(グラップラー寄り)としての「ぶし」がやさぐれて「がんどう」「すっぱ」「らっぱ」と言ふ、シーフ系のぶしとなり、伊勢新九郎なんとか(なんか出てた)が北条早雲三十某歳(の出自がラッパの関係と言ひ張る折口先生は偉大だなぁ)になってアレしたころ各地で便利に使はれたのち徳川の御代になって用済みとなったので、そのやさぐれた一部がなんか体系を持って「高野山の僧」みたいなのになったためお山の方で彼らを「非事吏」といった、と言ふ主張をしてゐる。高野非事吏のバリエーションに「ゴマの灰」があるさうである。
 かうやって書いてゐると、
a折口先生のお弟子によるこの辺の説へのツッコミがしっかりある上
bリアル北条早雲の頃のもののふは、ゆうきまさみ先生の描く芝居掛ったをっさんとしてのそれに近かったりする可能性があるので、世の中は侮れないのである。
 『新九郎、奔る!』にカタパルト出てきたけど、当時の辺りに秋津島の端っこで、朝鮮と戦った日本の地方の侍がコリアン投石隊によってボコられたと言ふ謎の黒歴史がある。投石器の類を忌避し、幸運を田んぼへ入れる儀式として毎年のお正月にそこで石合戦をしてEXP上げまくってゐた彼らのソレは、劣化ウラン弾でも撃ってんぢゃねえのかレヴェルであったらしい。
 花郎をやる際に、トップのひとである弥勒花子(ミルクファージャ)何とかさんがチマチョゴリでスリング振り回して敵をやっつけるのはいいと思ひます。

 ファイヤーの方は、なんか汎世界的にFだかH関係の音で表した説があるみたい。ヒジリのヒと日とマナ(霊)のヒは甲音、火が乙音なのでこの二語は交はらない筈。ただ、五来重説でヒジリ=火治り説がある。一応。
 朱雀門出先生の中編『ひじり』のは、上代特殊かな遣ひでも ・・・あの工場とかでの皆さんがヒジリを「なぜか火じりと発音」とやってゐて、ほんでとやっとけば、怖い。

 南方説によれば、古事記に出るヒジリの神の兄貴分にあたる白日神は、本居宣長説で「多分「向日神」の誤記」で、南方説によれば、この神様はオリエンテーション(東を向くの意で、太陽の方向を鑑みて家を建てる算段を指すらしい)関係を司る、日の陰で地の相や家相を見る神、ださうである。
風水説がーアポロ(ヘリオスぢゃなかった筈)ラインがー

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