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欲求階層の物語性に関する試論

 欲求階層と言えば誰しもマズローを想起することでしょうけれど、皆さんは自己分析なんかをしてみたときにこう思うことはありませんか。なぜ我々の思考はこれほどまでに原因と結果という関係性に縛られているのか、と。大した話でもなく、ここではそういう疑問を始点に人間の欲求の裡に物語を見いだしてみようというだけの話で、これはそういった試みです。
 前提として、人間は物事の理解に理由となる原因を無意識・有意識問わずに求めるようにできています。それゆえ、人間はいついかなるときも物語を欲求していると換言しうるでしょう。というのも、一般的に言われる物語とはまさに因果関係によって成立する観念であるからです。伏線とかフラグとか言い方は何でも構いませんが、私たちは物語形式であらゆる物事を解釈しているのです。例えば、登場人物Aが殺人をしたなら、彼の行為が原因で殺人事件という結果が起こったと私たちは考えるはずです。しかし、その因果関係が正しいのならAの行為自体もまた結果の一つでありその原因がどこかにあることになるわけで、その原因(結果)の原因がまたどこかにあると無限のごとく続くことでしょう。
 では、どのように考えるのが妥当かというと、私的には因果関係そのものが私たちの創造した幻想であるとするのが妥当であるように思われます。この考え方自体は18世紀の時点で既に現出していたのですが、本来すべてがただ結果として現象しているにもかかわらず私たちが本能的に出来事同士へ連関を見いだしているのであれば、これは非常に面白い事実ではないでしょうか。

 それで、欲求階層の話になりますが欲求階層説では上位の欲求と下位の欲求に分けられています。ご存知の方も多いと思いますが。とはいえ、欲求が上位であるからその欲求の方が常に勝るとか、上位欲求が満たされていなければ下位欲求は現れてこないということはありません。そもこの欲求階層は順序が固定されているわけでもありません。マズローの欲求階層説は甚だ誤解されやすく度々そういった話題が論題としてもあげられているようなのですが、私もその類の誤解があるかもしれません。それを踏まえて語りますが、欲求というのは満たされた時点においては欲求でなくなる、という仮説をここでは採用しておきます。欲求が私たちの行為を裏づける「原因」となるわけですね。ここまで言えばわかる方もいることでしょうが、私たちが欲求という原因によって食事や趣味に勤しむのはまさしく因果関係であり「物語」形式そのものなのです。私たちは「これをしたいからこうしよう」とか「こうなりたくないからこうしよう」と毎回理由を用意して行動しているし、「理由はないけどこうしよう」という考えを原因(理由)にして行為する。本人の自覚に関係なく、人間はあらゆる階層の欲求を端緒に物語とし続けながら生きているのです……絶対正しいとは死んでも言えませんが。ゆえに、人は物語からは決して逃れえないのではないでしょうか、それはそれで素敵なことであるように私には思われます。

 ところで、以前のノートと文章が異なるように思われた方もいらっしゃったのではないでしょうか。実はそのとおりで、以前ノートを書いた人間と私は一応別人なのです。どちらかといえば私は代筆者のようなもので、もう一人が原作者なのですが、あの友人は言葉に棘をつける悪癖があるので私もそれなりに苦労しています。ですが、案外優しいし人に甘い子なので大目に見ていただけると助かります。本人は謙遜するでしょうけれど、私はあの子の創造した世界が大好きですので、少しでも我が親友の作品を楽しんでくれる方がいれば幸いです。

 ここまでお読みくださりありがとうございます。以上、趣味人の与太話でした。

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