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希死者たちに花束を

 あなたは一度でも「死にたい」と思ったことがあるでしょうか。私は何度もあります。珍しいことではないですね。そういうときは思い切って言葉にするとよいでしょう。明確化された死の欲動はあなたの生を支えてくれるのですから。

 また、受け入れてくれる人がいるのならば吐き出せばよいでしょう。人はどれだけ頑張ろうと自分勝手であることから逃れえないのですから。
 人間は常に自死を悪として扱うものですから、言葉にしづらいこともあるでしょうけれど、気にすることはか。行為そのものにある善悪などあろうはずがありません。なぜなら、善悪とは私たちの都合の善し悪しで定めたものでしかないのですから。

 斯く価値観は道徳的ないし倫理的に反するのかもしれませんが、皆さんは「道徳」がいかなるものか考えたことがあるでしょうか。結論から述べますと、道徳とは宗教です。比喩でもなんでもなく、これ自体は歴史が物語る一事実です。よく教育を洗脳だなんて揶揄する声もあるわけですが、私には人間が虚構した合理性に則った教義を、我々信徒に信じさせようとする行為こそ教育なのだと思えるのです。この意味では常識もまさしく宗教に他なりません。思うに世界のすべては虚構的で、私たちの世界はどこまでも不自由に閉じているのでしょう。それを悲観することもありません。

 そんな世界に虚無を覚えるのは、空想の世界、物語の世界があまりに素敵に思えるから。そういう人も少なからずいるでしょう、私がそうなのですから。しかし、現実が空想に劣るからこそ、空想はより一層の魅力を湛えて私たちの裡へと生ずるのならば、ある意味それはそれでよいと想いはしませんか? でなければ、虚構とされる世界を愛し焦がれたこの心たちには出逢えなかったのですから、やはり現実はこのままでよいのでしょうし、仮に世界が終わるとしてもそれはそれでよいのでしょう。

 偏に断言しうるのは、世界に生じたすべての存在は何者にも否定しえないということです。不合理とかそんなものは人間の尺度での物言いであって、世界そのものに不合理と呼ばれるべきものは何もありはしない。それゆえあなた方は今、たしかに現を生きている。胸を張って、そう言うことができるはずです。偏った観念論者や懐疑論者でもなければ、ですが。

 人間の根源的な死の欲望はジークムント・フロイトに端を発する「デストルドー」の名で呼ばれます。人は生まれながらにして死を欲し続けているのであり、死の意識化こそが生の自覚となる。それもひとつの解釈なのです。真偽は置いておきますが、人がデストルドーに駆られることは人が病気に罹るのと同じくらい当然の現象でありますから、自死を忌避するのもおかしな話でしょう。楽しげに、或いは軽率に自死について想いを語り合うことができる世界こそが「私たち」には必要なのだと、ただ切に思うのです。

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