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芸術は〇〇だシリーズ

芸術とはいかなるものか、などと問われたところで芸術に疎い我々有象無象には自らの思考結果を堂々と述べることなど到底できはしないだろう。できることと言えば、他人の言葉を借りるだけ。

さて、今回は「芸術〇〇だ」という三種の言説について少し思案してみたいのだが、流石に岡本太郎の言葉を知る人は多いと思うのでまずはこれを足掛かりとして話を展開するとしよう。


1.芸術は爆発だ

言わずと知れた芸術家、岡本太郎の名言として語り継がれる芸術論である。この「爆発」とは基本的に精神の爆発を指し、芸術家の能動的な精神の爆発(創作意欲とも言えよう)がエネルギーを生み出し芸術を創り上げる、というのが簡潔な説明となる。また、鑑賞者に対しても作品を通して感情の爆発を誘発するという点においても芸術は爆発である、とのことだ。

こうして見れば彼の思想は我々にも共感しやすいもので、難解な部分も見られない。それはある種当然のことであり、彼は芸術が人間の生命にとって欠かすことのできない存在なのだと結論している。

"すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、その喜びが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。"

これは岡本太郎自身の言葉であり、生き方そのものでもあるだろう。本質的には彼の言う爆発は合理主義と非合理主義の成す「対極主義」に由来するものとされるが、そんな専門的な話はここでは置いておく。

ただ確かと思われるのは、彼における芸術が「爆発」であり、その根源とは自分の存在ないし生命の「喜び」そのものであったということだ。
故に芸術とは爆発であり、喜びの表現なのである。

とはいえ、私はこういう性格なのですべての芸術が喜びでできているとは絶対に考えないが、これもひとつの芸術解釈として魅力的であることは間違いない。


2.芸術は〇ナニーだ

先に言っておくが、断じて下ネタではない。以降では"基本的"に自己満足と呼ぶが、表現としては自慰行為すなわち手淫の方が適切に思えるので主題はこうしておくとしよう。

これもまた多くの人間が思う芸術の本質ではないかと思う。つまり、芸術とはつまるところ自分だけのために作品を生み出す自己満足であり、それ以外ではないという思想である。恐らく、この思想を支持する人の多くは、人生そのものが自己満足であるとも考えているだろう。

私はそれを間違いだとは思わない、そう、生きることも芸術作品の創作も自己満足であるという点については共感できるからだ。だが、自己満足のすべてを〇ナニーとして片づけてしまうこの言説には賛同できない。なぜかといえば、これらは似ているが、〇ナニーとは自己満足の内に含まれるものであり、狭義の自己満足に過ぎないからだ。

より正確に言えば、〇ナニーという行為(運動)は自分ひとりの物理的な現実という空間のみで完結する絶対的なものであり、そこには相対的な空想(他者)の余地がないのである。芸術が非現実(※)を描写して成立する以上、その言葉は芸術の表現に適さないのではあるまいかと考えた次第だ。

故に私は、芸術は自己満足ではあるが〇ナニーではないと結論づける。では、芸術とは何だと言うのか、私なりの解釈を次に紹介するとしよう。

※どれだけ写実的であろうと、現実の姿を収めた写真作品であろうと、作品となった以上そこにあるのは現実(現在)とは異なる虚構世界すなわち非現実である。


3.芸術は〇ックスだ

……もう言わずとも問題あるまい?
もちろん、性交のことである。媾合と言ってもよいが。
もしも私が斯様な解釈に至った契機を知りたいのならば『若き芸術家の肖像』を書見してみればよいだろう、敢えてお薦めはしないでおくが。

ここまで語っておきながら、私はこの言説について説明する気はない。あくまで"紹介"した時点で私の目的は達成されているので、あとは各々が解釈してくれればそれでよいだろう。何せ、解釈のためのパーツは既に用意してあるのだから。




最後に、私の言葉はすべて譫言なので、決して鵜呑みにしないようお願いします。せいぜい人生の暇つぶしにでも利用してください。

では、幸福な一日を。

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