ある者は言う、「この世の中に絶対正しいと言えることなど、なにひとつ存在しない」と。
またある者は言う、「この世界には絶対的な真理が存在している」と。
あなたはどちらがお好みだろうか? 私の所感では、感覚的に前者の正当性を覚える人間の方が多いと思われるのだが、これら二種の主張は現状どちらが正しいと一概に言えない状況へ陥っている。
前者の矛盾を相対主義のパラドクス、後者の矛盾を絶対主義のパラドクスとここでは呼ぶが、順を追ってゆっくりと確認してみるとしよう。
・相対主義のパラドクス
まず、「私のなかでは主張Aが正しいが、あなたのなかでは主張Aは誤りである。私はその在り方を認めよう!」というのが相対主義の端的な主張である。この私とあなたを社会・文化として考えるならば、「私たちの国では食事を残さないことが礼儀正しいが、とある国では食事を残すことが礼儀正しい」などとも言えるであろう。
どうだろう、何となく正しいような気もしないでもないのではないだろうか。
仮に客観的に普遍的な真理が存在していようと、人間が人間として(主観の裡においてのみ)世界を眼る限りは絶対に正しいと言えることなど存在しない、というのは正しい帰結ではないだろうか?
しかし、この主張はある点で矛盾している。
簡単な話で、「この世界には絶対正しいことなど何もない」とはすなわち「この世界には絶対正しいことなど何もない、絶対に」という主張に他ならない。その点においてこの主張こそが絶対的な真理へ位置づけられるのであり、これは相対主義の主張と明らかに矛盾している。
・絶対主義のパラドクス
まず(反感はあると思われるが)「魂は不死である」という命題はいかなるときも真であるとしよう。では、その真であることはどのように帰結されえるのかというと、私にはまったくわからないし誰にとってもわかりはしないだろう。というのも、これは「赤色だ」といった感覚によって同意を得られる事物に対しては決定することはできても、私たちは観測不可能な事物の真否を決定することは不可能であるからだ。
また、絶対的な答えを導くためにはその根拠となるものも同時に絶対的に正しくなければならないのであり、それは根源まで続くことになるはずである。仮に斯様な根源的かつ絶対的な真理があるのだとして、我々人間はそれをいかにして証明することができるのか、人間にその判断可能性が有ることをどのように証明することができるのか、私にはとてもわかる気がしない。それゆえ、絶対的真理の証明は絶対的真理の存在によるものではなく、その不在によって得られる不整合から得られるしかない(そして実際、これまで絶対的真理の証明はそのように試まれてきた)。言うに及ばず、この難題の解決は未だ成されていない。
とはいえ、この相対性と絶対性のなかに様相論(可能世界論)を含めると事態はまた複雑多様に変わってくるので、案外私たちが生きている間に絶対的な真理とやらが姿を見せる瞬間もあるかもしれない。私としては、ないことを祈るけれど。
・寛容のパラドクス
少し似たものとして、寛容のパラドクスという有名なものがある。
例えば、寛容主義者の山田君という少年がいたとしよう。彼は誰にどんなことを言われても決して否定せず受け入れてきたし、仮に今すぐ自殺しろと言われれば自殺してでも自分の主義を貫こうとする人間だった(そんな狂人はまずいないが)。そして意地悪な田中君が「なら今すぐここで死んでよ」と頼む、それを聞いていた佐藤君は「山田君、君はこの言葉に対しては寛容であってはいけない。こんなくだらないことで死ぬなんて馬鹿げているよ」と止めに入るのだ。
山田君はどちらに対しても寛容でなければならない、だが佐藤君の言葉に寛容であるには寛容であることをやめ田中君の言葉を拒否しなければならないのである。
このことから導かれるのは、いついかなるときでも絶対に寛容であり続けることはできないという端的な事実であり、これは相対主義・絶対主義と組み合わせることも可能であろう。詳細は講談社学術文庫の『語りえぬものを語る』を読んでいただいた方が早いと思うので、今回の読書案内として挙げておくとしよう。