なぜ私は存在するのか。
なぜ私は生きるのか。
本当に私は存在するのか。
本当に世界は存在するのか。
拗らせていると言われてしまえばそれまでである問いを反復する、私はそういう普通の人間です。あなた方も私に負けず劣らず凡庸な普通の人間だと思いますが、そんな普通の人生、楽しんでいるでしょうか。ああ、それは何よりです。
改めて、はじめまして。
特に報告も何もないのですが、披瀝する機会のない空想たちを閉じ込めておくのも若干の忍びなさを覚えないこともないので、少しばかり我が処女作のお話をしてみようと思います。
(需要のないであろう余談ですが、初作を「処女作」と呼び「童貞作」などと呼ばないのは、英語Maiden Workの訳語が処女作であるためだそう。ネットで拾った情報なので疑わしい点もあるが、悪しからず。)
少なからず見受けられるであろう駄文には目を瞑ってもらうとして、私の空想すなわち物語には様々なモチーフを恣意的に配置している。例えば、掟なんかは宗教ではお決まりの存在であろう、モーセの十戒や戒律は有名どころではないだろうか。だが、注意するとよい。魔女とは何であるか、掟とは何であるか、言葉への先入見を捨て想像してみてほしい。もちろん、しなくてもよいのだけれど。
さて、エピグラフから察せられるかと思うが、本作はスピノザ哲学に拠ったり拠らなかったりする。語弊を恐れず言うのならば、世界すなわち自然そのものこそ神であり我々はその構成物であるといった一元論が、彼の哲学の大要と言える。なかでも「永遠の相の下に」という言葉は彼においては中心概念のひとつであり、この永遠が意味するところは神なのである。ここまで言えば、エピグラフの言葉の意図も多少氷解するのではないだろうか。浅学者の薦めでよければ安価かつ平易なものとしては講談社現代新書『スピノザの世界ー神あるいは自然』が挙げられるので、こんなところにいる暇、いや奇特な方の中に興味を持った方がいれば手に取ってみると案外楽しめるかもしれない。
また、気づいた方がおられるかわからないが、Ⅰにおいては主に二人の作家のとある作品がモチーフとして多用されている。察しがよければひとりはすぐにわかるであろう、青空文庫でも読めるような作品なのだから。
最後に光球熱風の白尾と電離気体の尾について補足しておくとしよう、白尾とは鷹などの白い尾を表す語であり、電離気体とはいわゆるプラズマのことだ。天上を飛び翔けるこの鳥は、白と青の尾を持ち燿く。もしかしたら、私もあなたもそれを目にするときが来るかもしれない、そのときまたあなたと垣間見えるのならば、それも人生の一興ではないだろうか?
本作のために私が用いた言葉のすべては、その文色にしか表せない空想が私の裡に生じたために必然的にその言葉となったのであり他意はない。身勝手な話であるが、今後も私は私の生きる意味のひとつとして、私の空想を現実に変えてゆくだろう。それに少しでも付き合ってくれる隣人がいるのであれば、それは私のような人間には贅沢すぎるほどの幸福なのだと思う。
以上が私の些末な独口である。
飽きたので終わり。
思いの外、こうした吐露も悪くはない。
また気が向いたら会いましょう。では。