ごぶサタ!(ゴブリンとサタンが合わさった禍々しくも画期的な挨拶)
このたび、dekai3様主催の第一回性癖小説選手権に応募する作品として、下記の小説を書きました。
いつか、枇杷の花が咲く頃に
https://kakuyomu.jp/works/1177354054894832066 第一回性癖小説選手権
https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054894756678 主催者(dekai3様)
https://kakuyomu.jp/users/dekai3 では、いつもの如くあとがきです。
URLからもご覧いただけるように、本企画は各々の「性癖」を持ち寄ってその力で競い合う、という趣旨になっています。
そこで私も、どんな「性癖」を書こうかと悩みました。
日々漠然と生きているので「これぞ余の性癖である!」と豪語できるだけの感情が無かったんですね。
フォロワーにも相談の通話をしました。(いつもありがとうフォロワー)
そこで「既に死んでいる巫女さん」など様々なアイデアが出たんですが、書けば書くほど「性癖ってそういうことなのか?」という疑念が湧き上がって、テキストエディタを閉じて……という日々がしばらく続きました。
性癖ってなんなんだろう? 漠然と時を過ごしている間にも、締切は迫っていきます。
そんなときにふと閃いたのが、「ハッピーエンド」だったんですね。
「性癖:ハッピーエンド」でお送りする「いつか、枇杷の花が咲く頃に」というお話が出来たのは、そういうわけです。
本作を読んでいただいた方の中には、「え? これがハッピーエンドなの?」と思われた方もいたと思います。
でも、自分の中ではハッピーエンドなんですよ。
幸せってなんだろう、と私はよく考えます。
美味しいものを食べること。裕福な生活を送ること。それは確かに「幸せ」と呼べるものだと思います。
しかしどんな絶品も毎日食べれば飽きるし、裕福な生活も普通になれば「幸せ」では無くなるようにも思います。
いずれ忘れ去られる感情を、本当に「幸せ」と呼んでいいのだろうか。
ハッピーエンドってなんなんだろう?
……考えた末に「心の中に残り続けること」が結論となりました。
自分を見失った、もう何者でもない自分が、そっと寄り添ってくれた相手の記憶の中に生き続ける。それはいずれ忘れ去ってしまう、「瞬間の幸福」よりも、ずっと価値があるように思えるんです。
肉体が朽ちても、信仰が枯れても、想いだけはいつまでも心の中に咲き続ける。
というわけでそんな感じの、百養という、人から生まれた木霊の物語でした。
あなたの心に咲き続けるものはなんですか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。神崎ひなたでした。