オタク論で多分かなり突っ込む私が避けたい部分で事実が見えてるから避けないって点なら。なろう系は世界が狭い。ある意味なろう系ってセカイ系にすごく似ている。SF的現実世界にセカイ系を持ち込んだのがエヴァだとすると、ハイファンタジーにセカイ系の論法を持ち込んだのがなろう系じゃないか?と言う点。単純にゲームで見てはいけ無いと言うのはここにある。ゲームとして作ると作り手の論理として作りやすい。でもこれじゃ新しいものが作れない。もっと好みにダイレクトに作用するならゲームである必要が無いのでは?となる。ポイントはプレイヤー視点にあってそれがセカイ系の世界構造と瓜二つなんだ。
なろうを馬鹿にしてる人は分からないだろう。じゃあなたはクリエイターとして、1980年代のダンバインの頃になろう系の異世界召喚ものを作れますか?となる。いきなりオタク系の異世界召喚の始祖とも言うべき作品と較べればすぐに分かる。これは違うものだから。すでに他者が作ってくれてるからそれをモデルに出来る。でも自分が原型の異世界召喚から創る事が可能か?となると自分も所詮時代の恩恵で後だしで話をしてるだけと分かる。私は作れないってすぐに分かる。なろう系ってのは目に見えない様々な時代の変化を飲み込んで生まれている。何故キャラ文化全盛時代にあれほど嫌われた異世界が今になって蘇ったのか?それを単純にファッションの流行の様に見るのか?私は見ない。ゼロ年代に捨て去った90年代を10年代はきちんと継承している。これは流行の単純なサイクルではない。
別に私はそれが第2のSAOを造るとは思ってない。何故テンプレなのか?なら単に作り手がオタク層に受けたいなら無能だからだ…。だからオタク層を無視して価値を作れば別にテンプレに拘る必要は無い。ランキングが低いからなんだ?そんだけの話しなんだ。なろうテンプレはオタク向けに対する作り手のアイデアに対する効率化に過ぎない。その根幹は今のオタクの好みにこそある。そしてそれは今だから、第2のSAOはそれらを全て一掃すると書いてる。要するにランキングさえ無視すればオタクを無視して自由に作れば良いだろ?って話し。ネットで多数派のオタク向けで作りたいならテンプレの前にオタクの好みは突っ込めると美味しいとは思う。ただ私は創る事と分析する事は違うと思ってる。作るときは具体性が一番使えるから。抽象的なハイファンタジーのセカイ系ってのをどうやって具体化するか?はかなり難しい。
キャラ文化が何故セカイ系?あれの主人公の回りからファンタジーで作りこんだ世界観を捨ててしまったから。それはハルヒ後を見ればすぐ分かる。典型的なセカイ系から学園者へのカモノハシの作品だから。特にシャナとあわせてみると当時の時代変化が良く分かる。簡単に言えばキャラ愛でるのに作りこんだファンタジー世界無くても良くなく無い?って真実にたどり着いたって話しだから。どれだけゼロ年代がキャラ文化で歪んでいたか?良く分かると思う。今度は被せる新しい側を見つけたけど、中身の主人公はそのままってのが異世界転生のコアだから。実際にこれじゃ具体的には作れない。何を異世界でやるか?その辺りはやっぱゲームがポイントになってる。オタクがゼロ年代から10年代で大きく別の人達に変わったわけじゃないってのがポイントだから。
異世界と現代の流行のサイクルだと思ってる人がいるんだけど全く違う。根本的にカクヨムのジャンルが機能して無いのもこれが大きい。単純に現代学園ファンタジーに飽きたから異世界に移ったんだけど。その時だからって過去の異世界の繰り返しじゃないって点。そもそも現代学園ファンタジーって概念がおかしいんだ。なんだよファンタジーがある現代って…。ローファンタジーの話しになってしまうけど。これがまた難解な定義の話になってしまう。だから何度も話してるけど、そもそもファンタジーと非ファンタジーで作品を分けたほうが良い。次に非ライトノベル、ライトノベルでの分離。カクヨムの失敗はラノベに重厚なホラー、ミステリー層なんて無いのに全体をライトノベルを軸にしたジャンルわけをしてしまったから。キャラミスはファンタジーじゃないから…。何故こんな事が起きたか?と言うとラノベ中心にサイトを組んだ後一般とかキャラミス欲しいなって欲出たからだと見てる。ジャンルの設計思想が浅はかな商売根性でやってるから。おっと改善案は言わない予定だった。まあたまには出ると思う。ただあんまり言わないと思う。だって何やっても無駄って見てるから。
ネット小説には悪いけど、アニメって最終形に対してはエロゲみたいなもので斬り捨ててしまえばよい。ただラノベにとってはそんなレベルじゃない。アニメはおそらく物語が永遠に成長する若者スタイルを辞める。物語を作ろうってカドカワのCMってある意味的を射てる。物語はもうそんなに作らなくて良い。もっと細部の良さで勝負して行かないとクリエイターの仕事じゃなくて職人の仕事。ラノベって最終的にはファンタジーと学園者をどうするか?で終ってしまうと思う。実質的にそれ以外一般との差別化が無いから。大幅な縮小によって学園者+ファンタジー全般ってジャンルになるのが一番長続きするんじゃないかな?と思う。じゃネット小説も文字に?だから私はカドカワがやるものじゃないって書いただけでそれ自体は反対して無いむしろ支持してる。
具体的に作る段階に来て、ここで異世界で何をするか?ゲームをするって答えになる。それは分かりにくいじゃないか?となる。だってゲームっていろいろあるから。だからそこがポイントになる。実際なろうテンプレをゲームですべて解決するのは無理。主人公が何をするか?がものすごくなろうテンプレって強烈なんだ。そこがセカイ系と被る部分。そうそうセカイ系と違う部分で、大きな世界との繋がりはしょぼい。だから実際にはセカイ系とは違う。ただたまにラスボスである魔王が出てくるから…。現実はトライアンドエラー、もしかしたらすべて失敗で終るだけかもしれない。ゲームの大半は着実に前に進んでいく。ただそれは単純に決められたレールに乗ってるわけじゃない。ものすごく成功に対してリスクが低い。リアルと較べるとなんでも上手く行くレベル。でも違う。そこを上手く表現できるか?になる。根本はゲームじゃない。リアルはそこまで自身の言動が成功に繋がらないから。一体その違いはなんだろう?と考えなくて良い。そこがポイントじゃない。根本的には現実のような世界でゲームの様に上手く行く世界。
これ異世界じゃなくて良い。じゃなんで異世界なの?2つある。それは舞台としてゼロ年代の現実が飽きられてるから。次にご都合主義でもリアルな思考からツッコミが入りにくいから…。両者を合わせると、偶然ゲームっぽい異世界になる。ゲームで纏めてしまうとだめなのは、それっぽくない異世界転生が数多くあるから。でもどこかゲームっぽいってのは基本主人公にすごく都合の良い成功物語だから…。ゲーム的世界観は最初は必然から用意された。これはSAOを素直に新しい世界観のゲームと言ってよい。だが何故それが古典的ファンタジー世界に戻ってしまったか?偶然この無茶苦茶ご都合主義の世界が過去の異世界転生と似てもにつかない物語を作ったから。SAOからの流れが結果論的に刺激的だったから定着したことになる。後は主人公が何をやるか?はすごく刺激的なのでここは絶対の自信を持てる部分。ただそうなるとリゼロ?となる。元々批判が多かったらしい。グリムガルも氷菓も同様に発展してくると捻くれた正反対の様な作品が出てくる。あれだと見ている。もしそれが新しい流れならすべてそれに塗り変わってしまうのじゃないか?結果どうだろうか?これが答えになる。単純に例外じゃない。進化の捻りがたまに重要なポイントの正反対のような作品を作りだす。それにグリムガルと氷菓はアニメのヒットが大きい。リゼロも結果はまだ出てないけどそれが大きいと見ている。リゼロがかわいそうなのは僕街というループ者の傑作が前期にあった事だろう…。運が無いと思う。
元々ループ物はバッドエンドと言う禁じ手を使えるってのが利点と言う話を過去見たことがアル。根本的にループ物がライトな作風の逆を言ってしまうのはある程度仕方ない。ファッションシリアス?と言えばそうなる…。シリアスな視点での名作多いけどね…。
なろうテンプレをゲームでまとめちゃ駄目なのは、ゲームっぽさが無くても、根本がゲームだと言う流れ自体は変わらないから。レベルとか経験値とかそういうのは実は大事じゃない。ゲームとリアルは何が違うのか?でゲームの置ける障害は適度なストレスで逆に気持が良い。現実の上手く行かなさは、ある障害によってもう2度と成功しない道を作られる。そうしたらどうするか?全く別の道を模索する事になる。野球選手とかなら第2の人生とかになる。実際はゲームを厳しく作ったらリアルよりきつくなる…。ゲームってのはこういうバランスが客を楽しませるように作ってある。あのゲームの気持ちよさこそなろうテンプレの真髄だと見てる。
それがオタクの好み?だから私は何度もオタクだから特別視するのは間違ってると書いてる。世の中のオタク評論家が自分の世代のインテリオタクを想定してオタクをくみ上げるから狂ってきたけど、オタクって昔からライト層いるから…。単純に勢力図の変化が大きい。過去にはオタクと呼ばないような緩い層が今は中心層をなしててそういったファンの本質を古い価値観から全く異質の物としてつかめてない。過去からこういうオタク居るから…。根本的にオタクの本質はインテリだろうが底辺だろうが現実逃避だよ…。
じゃ何故ゲームでそれを直接味合わないの?それはちゃんとポイントついてる。これは説明できない。これはゲームと物語の相性の悪さを知ってると分かる。ええ相性が悪いからなの?そうなる。RPGって擬似的な物語ゲームなんだけど。実際いろいろ無理がある。実を言うとRPGをゲームとするほうがあってない。だってそもそもあれ役割ゲームで芝居の概念だから。RPGの物語を軸として、そこにゲーム的な部分を上手く物語りに落とし込んで融合させてる。RPGがゲームのベースに物語を載せたものだとすると、逆に物語にRPGのゲーム部分を組み入れたのがなろうになる。ただこれはシンプルに創った場合。基本はゲームの気持ちよさにあってあんまりゲームとしての形に囚われないほうが良いと思う。
やっと真髄に迫れた。なろうとオタクの融合。何故リアリズムがなろう系は壊れるか?すげー簡単主人公の気持ちよさの邪魔になるならリアルなんて要らないから。はい終了。
運営批判に較べてなんてすがすがしい気持ち。