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目の肥えた評価集団

 評価とは己の感性に従って作品を序列化する事でそれはある意味好みの羅列になると思う。評価に客観性を持たせることは出来る。ただそれは面白いのか?と言うと多分面白くない。良い悪いの客観性を持たせることは出来る。だが本当にそれは意味がある事なのか?私はそういった物を排除して好みに従った序列化しか意味が無いと思う。

 さてここからが問題。選ばれた複数の評価者による一般文芸セレクションは可能か?

 根本的にこれが矛盾してるような気がしてしまう。好みの違うものどおしで意見をすり合わせて偏った個人の好みの評価以上のものを選出できないか?ってのが目的になる。

 個人の偏った好みによる序列化はそれはそれで面白い。だがこれを複数で話す事によってなんとか良い悪いの領域にもっていけないか?って話し。それぞれの個人の好みをどうやって複数の中で一つの価値にしていくか?

 確かに個人の好みで序列したものはそれなりには面白い。でもだからどうした?というものも感じてしまう部分がある。何かが物足りない。段々見てて飽きてくる。

 もし本当に複数で選ぶことに意味が無いなら、何故芥川賞やアカデミーカンヌも複数の審査員や選考委員がいるのであろうか?

 カクヨムで個人の作品感想を見ていても、それを読んでみようという気にならない。そういえば読後感想をレビュー的に受け取っても仕方ないと思う。これは私も軽率だったと思う。一番のつまらなさはそれを考えると私が読んでない作品の感想を書かれてもつまらないからだ。

 以前かさなった事がある。だからと言って他の作品を読んでみようと思わなかった。やっぱ一人の感想ってどこかつまらない。評価が信用できないのは別の理由。相互じゃないか?って不安もあるから。それを思うとそうじゃないと分かった時になる。やっぱ個人の評価を見て参考にして読んでみようとはし無い。ここにあると思う。好みによる評価をベースにした感想を読んで面白と思っても。それは評価の仕方や感想が面白いと思ってるだけで、作品が面白そうだと感じないから。所詮個人の好みは合う合わないで終ってしまう。

 目の肥えた複数の人が押すなら見てみたいと思ってしまうものがある。根本的にそれはランキングじゃないか?それは違う。前はなしたけど、全員参加型ランキングは程度の低い評価者を必ず含むことになるから。じゃ何故ラノベは良いのだ?だから目の肥えた楽しみ方と言うのは頭を空っぽに見る逆の見方だからが答えになる。

 どれだけ優れた評価者でも一人が熱心に作品を高く評価してみても未読の場合それを見てみようとは思わない。

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