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ラノベと一般を繋ぐ

 ライト文芸にキャラミスの問題が大きいと思います。私はアニメでキャラミスについて知りました。これ何が既存のミステリーと違うの?それがさっぱり分からない。調べていくとそれはキャラに対する編集のゼロ年代レベルの古臭い感性によるものだと分かりました。要するにキャラにエッジをかける部分でリアリズムが壊れて一般ミステリーとしては漫画みたいな描写になってしまうからです。

 たったこれだけ?ラノベ舐めてるの?要するにラノベでミステリー受けてないのにキャラミスがラノベと一般の間になれるわけが無い。キャラミスこそがミステリーのラノベとの限界であってそこからラノベに食い込むことは無い。

 例えばこれがファンタジーならどうか?逆にライト文芸こそがファンタジーのラノベ側からの限界領域でそこから外に出られないと思います。SFも同じです。SFもファンタジーも一般小説として一応ありますが、古典か?よほど取り扱いの広い書店ぐらいかと。SFファンタジーを一般小説として扱う認識は一般化してないと思います。

 私が以前から書いてるのですが、ファンタジーか?非ファンタジーか?で分けるのではなくて、日常か?非日常か?これで分ければおそらく一般に食い込めます。ファタンジーってのは根本的には非日常の増幅装置みたいなもので、私がネット小説が漫画物語の先端になると書いたのは、ファンタジー要素を使わないと古典から逸脱するのは簡単じゃないからです。出来ないわけじゃないです。ただ作品の印象に対する差別化としてファンタジー要素ほど有効なものが無いからです。

 比喩として話せば、武器を持って戦うのと素手で戦うのはどっちが強いですか?こんだけの話です。私から言わせると漫画物語でファンタジーを使わないというのは武器を持たずに戦うアホにしか見えません。リアリズムってのはファンタジーと言う武器を取り上げた素手での格闘戦だと思えば早いと思います。

 ファンタジーでは絶対に一般とラノベは繋がらない。繋げるなら日常か?非日常か?でつなげないと無理。多分そうとう突っ込んで一般とラノベの間の模索って考えられて無いです。ラノベの本質がキャラにあると言うのは一面としてはあります。ただ今のようにSAOで話したように物語がキャラを魅力的にする古典回帰の状態でキャラがどこまで重要なのか?が分から無いです。何故キャラがこれだけ重視されたか?で漫画の特徴の表面的な刺激にラノベ編集部が囚われてしまったからだと思います。キャラって軸を創ると方針を単純化しやすい。多分トレンドの分析しこたまやってるはずですけど。根本的に外から見た発想で2chの批判的な人にかなり近い。オタク系って昔から作り手が同じ感性を持っててそれにシンパシーを抱いて作るだけなので、一般的な小説の発想がもつ一般化や普遍化の視点から考えると逆を行くと思います。その辺りオタク系が一般の視点で批判されるのを見るとあほらしいと同時に悲しくなるものあります。

 ジャンルとして同じ物を扱ってないとラノベと一般は繋がるわけが無い。ここがポイントになる。私の書いてる一般とラノベに対するリアリズムと言うのは、あくまで精神論で実質的にはファンタジーが一般として許容されるのはリアリズムをしっかりさせてもかなり難易度が高い。それはSFも同じ。私はSFとファンタジーあんまり区別して無い。特に漫画物語においてSFだファンタジーだって発想はかなりどうでも良い。アラビアンナイトが中東風で封神演戯が中華風だこの違いしかもって無い。SFが一般で意味が出てくるのってハリウッド映画だけだと思う。ただそれならロードオブザリングは?となる。実写映像の場合は一般化しやすいので扱い方が難しい。アニメだとこれが上手く行かない。

 じゃあ恋愛ものなら?これが難しい例えば俺ガイルはあれラブコメが主軸じゃない。いずれは二人のどちらか?となるが、主軸は友達になってて、その前の段階を描いてる。私俺ガイルってラブコメだとして見てない。だから他の作品と差別か出来てると思ってる。もちろん魅力的な女ヒロイン二人ってのは意識してる。ただ俺ガイルが特別性があるのは八幡って男キャラによるものが大きいと思う。俺ガイルってのは、大きなラノベの枠からはみ出してるからこそ面白い。これが私は駄目だと思ってる。リアリズムって軸で恋愛物として繋がってない。根本的にラノベのラブコメって発想が違う。ラノベのラブコメって恋愛物として発展したものじゃない。オタクの流行で発展したもので全く別物としてみたほうが良い。ラノベのラブコメは一般の恋愛物よりむしろけいおんに近い。単にヒロインに恋愛って軸が与えられただけで、根本的に流行の漫画的ヒロインを愛でるための物でしか無い。よってそういったキャラ重視の流行が過ぎてしまえば作られない。発想が根本的に一般と違いすぎる。漫画キャラを日常舞台の2次創作的に楽しむものすら流行に過ぎなかった。

 ファンタジーとSFで小説としては一般の規模が小さすぎる。ミステリーは逆にラノベが薄すぎる。そして恋愛は根本的に異質。ラノベと一般を繋ぐ土台が無い。なら間はすごく作りにくい。これが漫画なら違う。コナン君という完全に漫画として溶け込ませた巨大な推理漫画がある。

 ネット小説においてランキングの意味と言うのがものすごく大きい。適当置かれた小説がランキングによってラノベ的に選択される。ここで批判的にランキングの弊害を語るのは簡単。でもラノベと一般小説が何故分かれてるか?で考えるともしそれを一緒にしてしまったら読者は自分にとっての外れを掴まされる。ランキングの重要性が全く重視されて無い。ただそれはオタク層が中心層だからってネットだけの特異性になる。ただそれでも混ぜてしまったら逆に客は離れる。大事なのは存在としては混ぜてあっても、そこから選択できればそれで良い。だから私はカクヨムはランキングに頼らない複数の評価者による総合的な一般小説の選定をやってもらえるように努力すべきと書いてる。いやいや一般ランキングが必要では?それは思わない。それをやりたいならジャンルの徹底とタグの徹底になる。先ほども話したようにミステリーはラノベには要らない。だからライトノベル的ミステリーはタグで括って除外したミステリージャンルで検索をすればよい。今この機能が無いから論外だけど。どのみち私は一般小説はランキングで選定する事はあまり良いと思わない。だって十分な読者が集まらないから。中心層がオタク層のランキングでまともな一般的好みが反映されるわけが無い。中心層が一般層になる将来を待っていたらいつまでたってもそれは達成できないと思う。どうせオタク層以外偏った読書マニアしか居ないならこだわりの評価者が話し合いで決めたほうが良い。

 肝心の日常と非日常は?ファンタジー要素が王様になってるのは日本における一般の実写小説などの物語で非日常のバリエーションが少なすぎるから。特に実写は深刻で日本は経済的な理由で作らない非日常作品が多い。ただそれが不味いのか?小説も実写に沿ってる面が多い。もっと自由に出来るのにどうも実写ドラマが扱うジャンルが一般小説で多すぎる。実際取材とかの問題があるんだと思う。日常においてファンタジーは?だけど、そもそもファンタジー要素が日常的になるはずがない。漫画物語において成立した漫画日常であってリアリズムが土台になった一般小説でファンタジー日常ドラマはありえない。後日常の使い方の問題は日常の舞台なのか?日常が持つ刺激を使ったものなのか?で分かれる。起伏の少ないほのぼのとした日常を描くというのがそもそも小説に向いてない。辛うじて実写ドラマならあるうるかな?って程度で。日常を舞台にするわかり易い分類に対して日常の刺激を使うというのは分類として困難。

 この2つの意味を成立させてるのは氷菓ぐらいじゃないか?と思う。氷菓が他のミステリーと決定的に違うのは殺人事件が起こらない。これが殺人と言う非日常が発生しない事に繋がる。それだけだと日常の刺激と言うのがよく分からない。単純にエルとほうたとろーのやり取りの部分だろう。会話の内容はおいておいて、二人の会話は青春の日常って刺激になってると思う。実際会話の内容が実は大きいんだけどそれを突っ込んだらいろいろぐちゃぐちゃになって話がまとまらないから無視してる。氷菓が特に上手いなと思ったのは文化祭の部分。学校の中で見たら文化祭は非日常になる。でもそれを外から見てる人間にとっては学校行事という一つの学校と言う日常生活のまとまりでしかない。中に居る人間のお祭り騒ぎが持つ非日常感をアニメで言わせて貰うけど京アニはすごくうまく作ってる。氷菓は京アニが手がけたのがかなり大きい。あの会社は日常舞台の中での非日常を演出するのが上手い。


 ラノベと一般小説の間と言うのは机上の空論になる。

 ラノベと一般小説には超えられない大きな断絶がある。日本においてファンタジーの一般って市場がラノベぐらいのジャンルとして認められるほど大きくならないと。

 何故ラノベは漫画の様にならないのか?ここを掘り下げるとラノベと一般小説の間について無自覚な人は今のラノベのあり方に批判的な人が多い。ラノベの多様性の無さを嫌ってる人が多い。これはラノベの良さを分かってない。何度も書いてるがラノベは漫画物語の先端にいる。じゃ先端に無い漫画物語はどうなるか?排除される。これで答えがすべて出てくる。ラノベは古典を嫌う傾向がアル。だから多様性が無い。(あくまで割合としてそうじゃないと同じ作者のアウトブレイクカンパニーとチャイカが同時に存在するのがおかしい)ラノベにはゴキブリは存在しない。すべて人間以外許されない。ここがポイントになる。遺伝的にも形態的にもごきぶりは何億年前と同一じゃない。ただ変化が少ない。生物は変化の少ない古典的な生物もきちんと生き残ってる。それをまとめて今生きてる生物と見ている。これが生物の多様性の根本で、人間のような新しい生物が大量に新しく生まれたわけじゃない。古典的な生物が大きな変化無しに残ってる事が生物の多様性をうんでいる。古典こそが多様性の根源になる。10代とオタクに受けるってやってると古典を排除する流れになってしまったという結果論になる。

 非日常の奇抜な物語をリアリズム緩和で追い求めれば自然とファンタジーを使ったほうが効果的にナル。これで最初の話しに帰結する。

 しかし実際は新しいものが生まれるわけが無い。実際逸れは重要じゃない、それでも新しいと言う印象すら生まれない。そうなるとどうなるか?より過激な大量生産淘汰が求められる。私はネット小説の根源をウイルスだと書いてる。物語としての進化スピードの速さにそのメリットがあって文字をベースにした文章にあるわけじゃないと指摘してる。ラノベがネット小説に移ったのはある意味必然だと私は見ている。多分キャラ文化で未だに見てる人はこれが分からないと思う。多くの人はなろうが信者を引き連れてラノベとしてヒットするからなろうが成功したのだと力説している。しかしそれはアニメ化によって発行部数が桁外れに上がる理屈を説明できてない。なろうが無意味なものを作っていると結論付けたい勢力がどうもいるようだ…。何故コンナ簡単な矛盾が分からないのかさっぱり分からない。

 行き詰ったラノベに対してネット小説に無限の未来はあるか?無いって現時点では推測してる。今すぐネット小説が今のまま成長を続けるなら第2のSAOが必要になる。おそらく生まれないと見ている。絶対じゃない確率が低すぎると見ている。今のコピー文化では無理。それはコピー文化を否定するものじゃない。何故ならだからって古典を土台で作るだけでしょ?って代替案しか無いから。根本的に新しい作品に頼りきる創作って駄目になる。私はそれはネット小説でも駄目だと思う。私は一応なろうに期待をしていた。しかし現状を見て駄目だと思ってる。じゃ多くの人の批判と同じなのか?それは違う。私は今の異世界転生を見てこれは駄目だと見てるから。コピーって戦略じゃない。問題は異世界転生ゲーム世界にある。原理的なものじゃなくて結果論としてこりゃ駄目だと見てる。多くのなろう批判は累計集計に批判をするけど、実際は古典なろうが新規なろうを抑えてつけてるというより、伸び悩んでるの方が正解だと思う。

 これ多くの創作と生物進化の類似性で恐竜が滅んだから哺乳類の天下がアルってなる。巨木が倒れて若木の芽が出てくるってああいった現象もそれ。古典が頭を抑えてて新規の邪魔をしてるって発想。それは絶対あると思う。でも私から見て単に進化の袋小路だと見てる。サーベルタイガーの牙どんだけ伸ばしても有用なサバイバルの武器にならない…。どこに違いがあるか?言葉には出来ない。私の主観だから説得力が無いのは認める。

 第2のSAOを生まないとネット小説は下火(特にカクヨムは話しにならないと思う)になると思う。読者層がオタク層から一般層に代わったらまた変わると思う。はっきり言って創作は古典を残す形で多様化を維持しないとリスクが高い。ラノベというのがナンだったのか?と言うと麻薬に近い。強い刺激ばかりで構成してあるからそんなもの長続きするわけが無い。ただ短期的に金をむしりとるには好都合。じゃ私は批判的なのか?と言うとネット小説だけがかろうじてラノベシステムを維持できるのは間違いないから支持してただけで、コピーの土台となるものが大量の作品を生み出すのには外れだった場合はどうにもならない。

 私はラノベの戦略自体が間違ってる考え方には同意できない。それは多くの創作の多様性は所詮古いタイプの作品が残ってるだけだから。ラノベの新しい物語を商業性とバランスとりながら作るって点は全面的に支持できる。リアリズム重視の根底が結局古典支持になってると見てる。何度も書いてるけど、リアリズムを緩和してファンタジー要素を爆発させたほうがより参加作者が増えるのでより競争が激しくなって進化速度があがるためになる。絶対に一般小説はラノベに勝てない部分がある。(リアリズム重視はルールを守るプレイヤーに対してリアリズム軽視は反則ありのプレイヤーになる)多分その点あんまりラノベって優れた物語だと思われて無い。私の場合リアリズム重視の作品作りと軽視どっちも価値だと見ていて両方の価値を素直に認められる。それはラノベの根幹はリアリティにありリアリズムには無いから。オタク読者が実感を感じれればそれで良い。

 どうしてラノベって馬鹿にされるのか?私は正直分からない。表面的には馬鹿にされるのも分かる。ただ別に2つを認めてしまえばそれだけの話で。根本的な価値を計る土台が違う。それだけの話し。リアリズムを重視して作品の価値を計るならラノベは話しにならない。それ自体はなんら問題が無い。根本的に物語として価値が無いような見方をする人が多いのが腹がたって仕方ない。しかも漫画に詳しい人などがそれだからうんざりしてる。実際今ネット小説で一般小説を支えてるような層って一般層じゃないと思う。多分オタク層の少数派だと見てる。客観的基準を一つにして評価するのと、個人の主観に隠れた1つの基準で評価して面白いって帰結になるのって全然違う。ネットの評論家はこれが分かってない。大体後者のケースが多い。

 私は単純なラノベ擁護して一般小説批判をしてるわけじゃない。その点だけは間違えないで欲しいから長くなってしまった。ただこれ集大成に近い文章だと思う。

 ランキングの論理を話すと、頭空っぽで楽しむのにリアリズムを重視した作りはあまり重要じゃない。特にオタク層はファンタジーに抵抗が無い。それらを総合的に見るとリアリズムを重視した作りは新規な刺激を作り出すのに邪魔にしかならない枷縛りになる。頭空っぽ層が一般でもオタクでも多数派になる。必然として数を集める作品はライトオタク層向けになる。一般とラノベで分類すればまだいろいろ出る。ただ根本的に多数派は常に頭空っぽなので、私はどーせラノベに批判的な層は頭使いまくる読書マニアだと分かってるから。その人達が満足するにはそういったタイプの複数が納得できるまで話し合って決めたほうが良い。ジャンルわけしようがランキングに頼る限りは、どーせ不満が出る。何度も書いてるけど、ネット小説に一般層が数多く居ないから。読書オタクが中心になってランキングを廃止したら選別機能がなくなって面倒が嫌いなライトオタク層が消えてサイトが過疎化するだけだから。それを企業であるカドカワが望むわけ無いから…。私はそれを企業の金を使って企業にとって何の得も無い自分達の居場所を作る乞食行為だと見てる。だから私はライトオタク層が中心のサイトに寄生する以外、企業サイトに読書オタクが求めるような場所はありえないと書いてる。

 過去何故ラノベと一般の間を求めたか?と言うと優れた人間はジャンルに囚われないから。常識的にノーベル賞と金メダルの両方は取れない。ただ物語の作り手はこういう事が起きてしまう。それは厳密にリアルな虚構は存在し無いから。どんなにリアリズムを求めても虚構は基本うそでしか無い。論理の話じゃなくて程度問題になる。ラノベと一般をリアリズムによって完全に分離する事は出来ない。それゆえ一般小説の様なリアリズム頑張っちゃった刺激的なラノベもありじゃないか?と思っていた。もちろんノーベル賞と金メダルを同時にトルコとは無いのは物語の作り手にも基本は通用する。どっちかに割り振る事で力が発揮されるレベルの作家が大半。私は何度も一人の飛びぬけた例外に頼る創作は駄目と書いてる。第2のSAOに頼るサイト作りは間違ってると書いてる。第2のSAOを必然とするには、サイトの継続と言うシンプルな土台をしっかりさせることにアル。サイトスタート時に第2のSAOが出てすべて解決したなんて馬鹿なサイト運営は考えるべきじゃない。

 私が考え方が変わったのは実はカクヨムの小説に触れたからじゃない。これはトドメになった。学園ラブコメの時代はまだマシだったから。私はラノベのラブコメは異質だと書いた。それでも今のなろう系ほどぶっ飛んだ作品じゃない。基本は恋愛物と思う。青春ドラマの入り込む余地があった。氷菓が根本的に学園ラブコメの流れの中にあると書いたのがそれだと思う。時代の変化がすごく大きいと思う。ここまでラノベの編集が選んだ作家が外れる時代が来るのが想定してなかった。今の現状を見て金メダルとノーベル賞を同時に取る話が出来るか?それどころかライトノベルと言うノーベル賞すら取れない状況になってる。ここで多くの人間は古典回帰による多様性に頭が行く。私は全く違う。ラノベの本質を分かってるから。ラノベは止まれない暴走列車に似てる。ラノベは戻ることが出来ない。それはラノベである存在意味を失ってしまう。ラノベがノリにのってたその時に私はラノベと一般小説の間を考えていた。それはもっと上を目指せるような位置にあったから。国内で発達した日本企業が世界戦略だとなってた時期になる。今は?完全に成長が止まってたまに赤字出すぐらい落ち目。

 実は、今のキャラ文化落ち目になるサインが出ていた。私も当時それやばいと思ってて1つの作品でそれを見誤った。SAOとインフィニストラトスを同様の作品としてみてしまった部分がある。SAOの物語として優れた点はすぐ気がついたけど、根本の部分でSAOはキャララノベの色を濃く持ってる。これで両者の区別がつかなくて見失ってしまった。サインとしては、化物語ととらドラとけいおんにそれを感じていた。そのすべてをISで見失った。化物語を見て、西尾維新独特の癖の強いキャラを見て、ああこれは細分化の末期だと読み取った点。とらドラもひたぎ同様ツンデレの末期だと見ていた。なおかつ少女漫画みたいな面倒な恋愛ストーリー。根本がキャララノベなのに、無理矢理ストーリーだけシリアス強めの恋愛物。差別化による末期だなと見ていた。こういった路線をISがなんだまだまだキャララノベいけるじゃんと見誤ってしまった部分になる。ファンタジー色の強い世界観と融合して復帰したと勘違い。それはSAOとつなげてみてしまって新しい流れと勘違いしてしまった。実際今の惨状を見ると、あれはISだけが手に入れた最後の大爆発になる。始まりじゃなくて、終わりの作品。ISが逆にキャララノベにとどめを刺した。けいおんの話しが忘れたけど、男が要らないより男主人公に割く時間が無駄の極み。ラノベはいくらハーレム物でも男主人公の描写が大半を占める。でも根本的に絵物語で魅力を発揮する日常系の様な作品をラノベで展開できない。


 もう一度エッセイやその他で展開すべきじゃないか?それぐらい書いてしまっている。近況ノートを使ったのはここまでやる気が無かったから。今でもイマイチだと思ってるのは所々焼き直しが入ってる。テーマが違うのに言ってる事が被ってる話がちらほらある。こういうのがすごく嫌い。私自身ずっとラノベと一般の間と言うものを考えていてそれがいつまにか変わってしまったので何故だろう?と自分でも疑問になったから。私がラノベと一般の間を考えるのは、アニメが大きい。アニメは実写的な作品をストレートに作らない。つまらない超能力とかの混ぜ方してすげーつまらない作品を平気で作ってしまう。これは私がファンタジーを否定的に見てるわけじゃない。根本的に実写的な作品に雑なファンタジー要素を入れてどっちの良さも殺してしまうような作品を平気で作るから。アニメ製作者の実写コンプレックスの病気。岡田まりさんの花咲くいろはの企画話を見るとそれが顕著だと思う。ラノベだからこういう作品って決まりを作るより、作る人が作れば面白いもの出来てしまう。受け手はラノベを求めてるんじゃなくて面白い者を求めるからあんまりラノベらしさの拘りって意味が無いと思ってみてたから。

 それは今でも同じじゃないか?とんでもない屋台骨とナル量産型ラノベが衰退してる今そういう冒険作をただめしぐらいで買っておく余裕が無い。そこで分かるのは、無料ならできるじゃないか?となる。だから私はネット小説では可能だと書いてる。それに対して、実際ラノベと一般の間って何?って話を今回突っ込んでやってる。根本的には机上の空論で、ラノベと一般を繋ぐものなんて無い。それが何故か?と言うとアルスラーン辺り見ると分かるけど、歴史をベースとした戦記物としての一般性がまだある。あくまで架空戦記だから歴史小説にはなれないだけだから。問題はラノベは古典を排除してしまう傾向があるから。未だにアルスラーンもブギーポップも続いてる。でもフォロワー的な作品は大半絶滅してると思う。それが古典排除の傾向になってる。電撃じゃない化物語にブギーポップの影ぐらいは感じれるから影も形も無いとは言わないけど…。

 ただちょっと失敗ですね。これだけ焼き直しが多いとつまらんと思う部分が強いです。やっぱもう駄目だと感じます。ただ何故私だけがこれだけ個性的な視点に慣れるのか?不思議です。なおかつ私妄想的で的外れだと微塵も感じない。むしろこれまで見たこういった話で一番鋭いとすら感じてしまう。自画自賛ですけど、実際つまらん話が多いから。基本的にラノベ論って編集すら外から見た話が多いです。売れる傾向は分かるけど、自分で面白いと思ってないだろ?って見ています。そういう視点って甘いんですよ。今の行き詰まりがそこにあると見ています。基本オタク向けって読者と作家の好きの共有ですからね。ラノベのアニメ化でオナニーって批判が多いのですが、アホか?と見ています。作家のオナニーをわが事のようにシンクロするのがオタク向けなのよ?って話で。オタク向けに一般的批判なんて安直にするなって気持で一杯。

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