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自分のこととして受け取る、考える

8月3日、小暮沙優さんによる、句集『広島』(原爆投下から十年の際編まれたもの)を歌う朗読モノオペラを聴きにいきました。合唱曲や映画等、モノオペラに直接関係のないことも交えながら、公演が終わった後思ったことを、拙いですが書いてみました。



まず、合唱組曲「IN TERRA PAX」の第一曲「知った」について書かせてほしい。
「知った」では、戦争を父や祖父の知る遠いむかしのものがたりとして捉えている、言わば戦争を「知らない」少年、太郎が一枚の写真を見る。泥にまみれ、腕から血をしたたらせるベトナムの少年の無言の叫びを見て、初めて太郎は戦争を「知った」。そして南へ飛ぶジェット機を見て、ベトナムの空は日本の空につづいているんだと太郎が「気付いた」ところで、この曲は終わる。
つまり「一枚の写真」は太郎に戦争の恐ろしさやむごたらしさを教え、「南へ飛ぶジェット機」はそれが他人事ではなく自分と地続きであることを示したのだ。この二つの役割が大切なのだと思う。

たとえば、映画『この世界の片隅に』では、主人公すずの衣食住がこれでもかというほど丁寧に描かれている。この作品は、生活をきちんと描写することで、「自分とは関係ない戦争の悲惨な物語」ではなく「自分と同じ人間の物語」として受け取り手に届いたのだと思う。

今日、句集『広島』を歌う朗読モノオペラ「つなぐ」の公演を見て、聴いて、涙が溢れた。俳句に音をつけているというよりかは、言葉が音によって解放されていくような、そんな感覚だった。

薬塗るや裸形を女体とも知らで 亀井一郎
性別が分からなくなるほど負傷したからだと、薬を塗るという行為。
蟬鳴くな正信ちゃんを思い出す 行德功子
亡くなった弟を詠んだこの句は公演の中で何度も繰り返された。悲痛な叫びだ。
原爆地をたやすくはうたう気になれないでいる 吉岡禅寺洞
書くことの切実があり、書かない、書けないことの切実がある。

俳句という短い文学は、瞬間を鮮明に切り取り、読者にありありとした実感をもたらす。この公演で歌われた俳句達は、沙優さんの声を通して、身体的感覚として我が身に残った。冒頭の話に戻ると、私にとって「つなぐ」は「一枚の写真」であり、同時に「南へ飛ぶジェット機」だった。
知ろうとすること、戦争を遠い誰かの話ではなく自分のこととして受け取り、考え続けることを大切にしたい。
そして、それらを次に繋いでいかなければならないと、強く思った。

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