車から降りて見る雪その匂ひ 野名紅里
車の中から見る雪と車から降りて見る雪。その違いは窓ガラス一枚を隔てているかいないかだけではない。あたたかい車の中と、外の冷え切った空気の違いを肌が感じる。視界の広がりもまるで違う。そして、この句が注目したのは「その匂ひ」だ。
雪の匂い。普通に生活している中で、あまり意識したことはないかもしれない。しかし、車の中のこもった匂いから雪の澄んだ匂いの地に降り立つとき、嗅覚は鋭く刺激される。
雪が降って、車を止めて外に出る。雪に対する喜びがこれでもかというほど感じられる。
雨音の中に波音彼岸花 山口遼也
海に来ているのだろうか。浜や海に打ちつける雨の音が響く中、よく聴いてみれば晴れの日と同じように波の音もある。
雨音と波音を並列に書くのではなく雨音の「中に」波音と書いたことで、音の遠近感、立体感が生まれていて、心地いい。
天候が良くないときの海は薄暗く不穏だが、この句はなんだか透き通った感じがする。そこに現れる彼岸花の赤は鮮烈だ。雨と波の音がする。彼岸花はいつだって恐ろしいほど無音だ。
玄関の時計は正し福寿草 松田晴貴
「は」という助詞が効いている。家には時計がいくつかあり、ズレてしまったものや遅刻防止のために意図的に早めているものなんかもある。この家では玄関の時計こそが1番正しく、秒針まできっちり合わせているものなのだろう。
植物季語は奥が深い。五音余ったとき、それっぽい植物季語を入れると句がそれっぽくなることもある。物質として色も匂いも形もあるし、それでいてうるさくないので格好がつく。では、その季語は本当に動かないのか、というのが大事である。
この福寿草には必然性を感じる。その理由はきっと説明外の、遠い、または深いところにあるのだろう。
父の字の並ぶ葉書や草の花 西江友里
俳句にすることで、物は今までと違った顔を見せる。父から送られて来た葉書を「父の字の並ぶ葉書」と捉えることが、世界をあたたかくすることなんだと思う。
手紙の内容も大切だが、父の字がたくさん並んでいるだけで嬉しい、そんな気持ちが伝わってくる。葉書を送るのだから、遠くにいる父だろう。そういえば父親の字を見る機会ってあまりない気がする。母の字と比べるとレアなイメージ。
そして季語。秋桜や鳳仙花など名のある花ではなく「草の花」なのが、いかにも父親らしい。
饒舌なアリスの兎藪柑子 常原拓
フィクションの題材を扱うときは、リアリティのある季語をつけたい。例えばこの句の季語が「冬の虹」だったら、現実感のない空想の俳句になってしまう。兎が喋るというのは実際にはあり得ないことだが、藪柑子という物質が、この句を私達の世界のものにしてくれる。
「不思議の国のアリス」の内容はあまり覚えていないが、あの白ウサギは印象的だ。頭の中で昔読んだ絵本のページがめくられていくような、懐かしい気持ちになった。
数珠玉や鬼ゆつくりと十数ふ 山口昭男
中七でいきなり鬼が出てきてどきりとさせられる。「鬼ゆつくりと」なんて言われると思わず恐ろしい下五を想像してしまう。「目覚めたる」とか「人を喰う」とか。しかし実際のところは「十数ふ」だ。ここで、鬼が本物の鬼ではなく、かくれんぼや鬼ごっこといったこどもの遊びの中での鬼だと判明する。読みながら、頭の中に思い浮かべていた鬼が魔法のように人間に変わる。「いーち、にーい、さーん…」大きな声で数を数える姿は微笑ましい。
余談だが、〈かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭〉という寺山修司の短歌がある。こちらは人が鬼になってしまうような恐ろしい歌だ。