パラパラチャーハンの作り方、というのは世に蔓延っている。卵と米を先に混ぜるとか火力がどうだとか、こうしている間にもパラパラチャーハンのレシピは増え続けているはずだ。そもそも、なぜパラパラチャーハンの作り方がそんなにたくさん生まれたのか。テレビで見て知ったのだが、なんと日本の米は「そもそもパラパラチャーハンに向いていない」らしい。日本米でパラパラチャーハンを作るのは難しく、不可能を可能にするべくさまざまな方法が試されているわけだ。
大学生の頃、妹の友達にふくよかな女の子がいて、ある日何人かでダイエットの話をしていたら、その子がすごい勢いでダイエット法を話し始めたのだという。自分より痩せてる人達にダイエット法を教える姿に他の子が「いや、誰が言うてんねん」とツッこんだらしいが、これはパラパラチャーハンと同じことが起こっている。痩せにくい体質の人だからこそ、不可能を可能にするべくダイエット法に詳しくなったのだ。私はこれを「パラパラチャーハンの法則」と名付けた。
俳句における「客観写生」もパラチャーだと思う。人間は自分の視点でしか物を見ることができないから、「客観写生」というのは実質不可能だ。「客観写生」がこんなに言われているのは、もちろんそれが良い、正しいというのもあるが「不可能だから」という側面もあるだろう。
話は変わらないようで変わるが、俳句は理屈より直感で作るものだと思う。もっと言えば頭じゃなくてからだで作るものだ。俳句について考えること、俳句について勉強や質問をすること自体がパラチャーなのかもしれない。
私はこの前、取り合わせの方法についてご飯の会で周りの俳人に聞きまくった。パラチャーすぎる言動だ。感覚でできてしまう人間は「取り合わせの仕方」なんて考えたこともないだろう。
パラパラチャーハンが不可能なら、私が良い俳句を詠むことも不可能なのだろうか。そうではないと信じたい。俳句はほとんどスポーツだから、いい句をたくさん読むこと、多作多捨を実行し主宰の選を浴びることを繰り返せば、いつか私のびしょびしょの米もパラパラチャーハンになってくれるだろう。