• 詩・童話・その他
  • エッセイ・ノンフィクション

秋草一句鑑賞 六〜八月号

秋草六月号 一句鑑賞

石鹸の手より逃れてヒヤシンス 小濱准子
最近はハンドソープやボディーソープが普及し、石鹸を使うことも以前より少なくなってきたが、この句を読むと石鹸を握ろうとしたときのつるつるした感触が呼び起こされる。「逃れる」という表現は、まるで石鹸が意思を持って、手からすり抜けていくいるかのようだ。どこかコミカルな、お茶目な感じがする。
ヒヤシンスという季語の距離感もいい。石鹸と響き合うような清潔なイメージがある花だ。触覚以外に嗅覚も刺激される句。

空一つ飛行機二つ蝌蚪の水 水上ゆめ
「空に飛行機が二機飛んでいる」という景を「空一つ飛行機二つ」と表現した上十二が見事である。飛行機という大きなものと、空という更に大きなもの。しかし、数えてしまえば「空一つ飛行機二つ」なのだから面白い。
更に季語は「蝌蚪の水」である。空と飛行機の下では、おたまじゃくしがうじゃうじゃ泳いでいる。「簡単に数えられるもの」「数えられないほど多いもの」、「大きいもの」「小さいもの」、「天のもの」「地上のもの」の対比がダイナミックだ。

てのひらに貼りつく花の種も蒔く 対中いずみ
花の種を蒔いていたら、てのひらにいくつか貼りついた。そして、貼りついたものを取ったり、はらったりして一緒に蒔いた。それだけのことしかこの句は言っていない。ただ、圧倒的にリアルだ。
私の住んでいるアパートに庭はないし、種蒔きなんてしばらくした記憶がない。最後にしたのは小学生時代だろうか。それでも、この句を読むと鮮明に記憶が蘇る。種の小さな粒の色や、土の匂いまで思い出せるのだ。俳句の普遍性を感じる。

白梅や句点の丸を閉ぢきらず 加藤綾那
白梅のかわいらしい花と「句点の丸」の取り合わせ。丸を閉じ切らずに書くというのは、わざとではなく無意識にそうなってしまったのだろう。もしかしたら急いでいたのかもしれない。意図なく少しだけ隙間ができた小さな丸。私たちの脳は文脈からそれを問題なく句点だと認識するが、作者はなんとなくその間が気になったのだろうか。
未完成の丸とぽんぽん咲く梅がイメージの中で重なっていく。

吊革に丸と三角山笑ふ 竹中健人
電車やバスで目にする吊り革。丸い形のものが多いが、三角のものもたまに見かける。吊り革自体は無機質なものだが、中七に「丸と三角」というように記号が並んでどこか楽しい雰囲気だ。「山笑ふ」という季語がそのほっこり感を増幅させている。
車窓からは明るい春の山が見えている。電車の中でスマホを見ている人がすっかり増えた世の中だが、この句の作者は外の景色だけでなく吊り革にまで注目している。

ざらざらと鳴る万華鏡鶴帰る 犬星星人
個人的にオノマトペを使うときは既存のイメージをいかに更新できるかが重要だと思う。犬は「わんわん」雨は「ざーざー」といったデフォルメされた表現をいかに本物に近付けるかの勝負だ。その点、万華鏡の音というのはそもそもあまり意識したことがなかった。きらきらした模様が振るたびに変わる万華鏡。普通は視覚的に楽しむ万華鏡の音に着目したという点がすでに新しい。「ざらざら」も的確である。
季語の「鶴帰る」の距離感がちょうどいい。鶴と万華鏡、なんとなく相性がいい感じがする。

蝌蚪につく蝌蚪のつくりしあぶくかな 山口昭男
蝌蚪が吐いた泡が蝌蚪のからだにぴたりとくっつく。おたまじゃくしなんてもうしばらく見ていないが、想像のつく景色だ。泡をつけたまま泳いでいる蝌蚪の姿はなんだか微笑ましい。
「つくりし」という言い方もおもしろい。蝌蚪に「つく」蝌蚪の「つく」りしで語感も良いし、わざわざ作ると表現する少し大袈裟なところにも惹かれる。
この俳句、素材は蝌蚪とあぶくのみ。二つの要素だけで、こんな風に仕上がるのだから俳句の可能性はすごい。

羽はえるやうな痒さや薊咲く 山口昭男
くすぐったいときの感覚を「羽はえるやうな痒さ」と言われたら、あの憎らしい痒みも一気にメルヘンチックになる。羽が生えたことなんてもちろんないけど、確かに羽が生えてくるときはむず痒いのだろうなと思う。
俳句の添削で「風は吹くものなので『吹く』は省略できます」とか「花が咲くのは当然なので『咲く』はいりません」とかよく聞くけど、この薊「咲く」はとても効いている。脳内で背中に生える羽と、鮮やかに咲く薊がリンクするのだ。

秋草七月号 一句鑑賞

囀やころがして焼くウインナー 橋本小たか
なんでもない朝、といった感じだ。お弁当か朝食か。上手に火が通るようにウインナーを転がしながら焼く。
変わったものやいつもと違うことを書き留めるのは簡単で、毎日していることやいつも目に入っているものを書くことは結構難しい。当たり前すぎて、なかなか捕まえられない。
囀の音とウインナーが焼けていく音。いつも通りの朝の簡単な料理が急にきらきらして見えてくる。

ローファーの踵に花をつけて来る 栗原和子
最近の高校生はスニーカーを履いている子も多いが、私たちの頃はだいたいがローファーだった。
桜が咲く季節。新しい制服とぴかぴかのローファーはこれから始まる高校生活を応援してくれているみたいだ。
この句には桜の木自体は書かれていない。でも、ローファーの硬い踵にぺたりとついた花びらを書くことで、その子がここに来るまでに通った桜の道が見えてくる。
高校生って最強だ。花びらが貼り付いたローファーで、どこへだって行けそうな気がする。

耕して土の幼くなつてをり 村上瑠璃甫
この句の「幼い」は主観の言葉だが、耕した後の土が「幼い」という感覚はなんだかとても分かるような気がする。
色が濃くなってほかほかの土はどこかあどけなさや若さを感じられる。そう考えると、耕す前の土は白っぽく渇いていて、落ち着きのある老人を思わせる。
土の色、土の匂い、土の質感……それらを全て言い得ている「幼くなつてをり」に心を揺さぶられた。

スプンより軽きフォークや風光る 西江友里
スプーンより体積が小さいフォークが、スプーンより軽いのは当たり前ではあるが、この句は理屈より実感で書かれている感じがする。スプーンもフォークもそんなに重いものではないから、この二つの重さの差に注目する感覚って結構繊細だ。こういうふとしたことに気付ける生活を送りたい。
季語、風光る。春の風に銀色のスプーンとフォークがきらきら輝いている。季語も、このくらい素直につけてみたい。

どこからも入れる庭や猫の恋 宮野しゆん
素敵な空間だ。門も塀もない開かれた庭は猫だって拒まない。好きなところから入って、好きなところから出てゆける。
「恋」というと一見かわいらしいが、人間の恋も熾烈なら、猫の恋も熾烈だ。恋に傷ついた猫が庭をさまよっている姿を思わず想像してしまう。
「どこからも入れる」というくらいだからある程度広い庭なのだろう。庭で野菜を育てていたおばあちゃんの家をなんとなく思い出した。

空色の水水色の空涼し 藤井万里
景としては、空を水が映している様子だろうか。「水色」ってそもそも不思議な言葉だ。雫の絵を描くときは「水色」を使うけど、水は基本透明だし、実際の汗や涙には色なんてない。水たまりや川の水の色は、映すものの色や底の色によるだろう。それを考えると「水色」ってだいぶ感覚的だ。
空と同じ色の水。水と同じ色の空。天気が良いのだろう。そこに吹いてくる涼しい風も、なんだか水色なような気がしてくる。

どうしても花をうつしてしまふ水 山口昭男
平らな水があれば、景色が映るのは当然だ。その当然が、なんだか揺らいでしまいそうな俳句である。
「どうしても」花をうつして「しまふ」水……水に感情があるみたいだ。少なくとも、作者にはそのように見えたのだろう。そこに美しく咲いている花を映さずにはいられない水の切実さが表れている。
俳句で花と言ったら桜。日本人には特別な花だ。水にとっても、桜は特別なのだろうか。

「秋草」八月号 一句鑑賞

昨日よりもう豆飯と決めてゐて 高橋真美
個人的に料理において最も憂鬱な作業は「献立を決める」ことだと思う。献立さえ決めてしまえば、作るのも食器を洗うのも大したことではない。今日は何にしようかな〜昨日肉だったから魚かな〜冷蔵庫に腐りかけのチーズがあるな〜なんて考えながら夫に「夕飯何がいい?」と聞くとお決まりの「なんでもいいよ」である。やれやれだ。
献立がすっと決まると嬉しい。買い物中に、いい食材を見かけて明日の夕飯まで決まってしまうとすごく気分が良くなる。豆飯と決めた一日は、きっと明るい一日だろう。

もとの名は松下電器レモン咲く 舘野まひろ
松下電器はパナソニックの昔の名前。「元の名は松下電器」というのは一見ただの情報であるが、ここから広がってくる光景がいろいろあるように思う。
スーパーの「ジャスコ」は「イオン」に変わったが、いまだにジャスコと呼ぶ人も多い。世代によって、ものの呼び方は変わってくる。この句を読むと「パナソニック?ああ、松下電器のことかね」と言う声が聞こえてくる感じがする。季語の「レモン咲く」がその思い出を補強している。

清志郎が愛をいふから蕗を煮る 野名紅里
「愛し合ってるかい」と心の底から言うことのできる人間はなかなかいない。忌野清志郎は本当のスターだ。
生きていた時代が微妙に被ってはいるけれど、私たちが物心つく頃には清志郎はこの世にいなかった。でも、清志郎の音楽も清志郎の映像もこの世にたくさん残っている。清志郎が愛を叫ぶ。愛を歌う。わけのわからん世の中で、生きていけそうな気がしてくる。
生活のために、愛のために蕗を煮る。なんだか優しい気持ちになれる。

滴りのふくらみきれぬところかな 山口昭男
水というものには不思議な魅力がある。子供の頃雨の日に車に乗ると、窓を伝っていく雨粒を夢中で見ていたのを思い出す。水滴と水滴がぶつかって大きな塊になり窓を滑り落ちていく。スマホもなく、ゲーム機も持っていなかった時代、雨粒を見つめるのは楽しかった。「滴り」にも、ずっと見ていられる魅力がある。
滴りのふくらみきれぬところ、と言われてすぐにピンときた。なるほど、よく言ったものである。ぼーっと見ていた「滴り」が言葉を与えられたことでまたビビットになった。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する