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秋草一句鑑賞 十月号

むらさきといへばその人衣被 舘野まひろ
他の色では詩にならない。むらさきでないといけないという説得力がある。
色にはイメージがある。ピンクはかわいい。青はクール。オレンジは明るい。それに比べるとむらさきは、何とも言えない。むらさきが一番好きという人はあまり見たことがない。だからこそ、むらさきといえばその人と一直線に結びつくのだろう。
どこか高貴なむらさきという色。その人を大切に思っていることが、季語の衣被から伝わってくる。ほっとする取り合わせだ。

さくらんぼ少々濡れてゐてほしい 対中いずみ
たしかに、水滴がついた艶やかなさくらんぼは美味しそうで魅力的だ。でも、びしょびしょすぎてもそれはそれでちょっと嫌かも……「少々濡れてゐてほしい」というのに、非常に共感した。
願望として書かれた少し濡れたさくらんぼが鮮明に頭に浮かぶ。それは、ここに書かれたのが他のどの果物でもなく、さくらんぼだからだ。「少々濡れてゐてほしい」さくらんぼらしさ、というものがこれでもかというくらい表現されている。

ただならぬ男の寝癖葛の花 上川拓真
「ただならぬ」が席題だった。「ただならぬ」で真っ先に思い浮かべるのが〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一〉だ。こういった奇抜な使い方もできる「ただならぬ」を最も自然に使っていたのが拓真のこの句だったように思う。
葛の花の地味さがいい。寝癖がなんだか愛おしく感じる。措辞の使い方も、季語のつけ方も、ものすごく素直だ。素直な言葉を選ぶということは、とても難しく、とても大切なことだと思う。

村芝居心中までの長きこと 松田晴貴
素人の芝居のぐだぐだ感がよく出ていて、しかもそれが嫌ではなくてむしろ心地いいのが面白い。予定時間を押していてもまったく気にすることなく、なんなら演者も見ている人もお酒が入っている。いらないくだりがいくつも入る。野次が飛ぶ。やっと終わりかと思えば、またもうひとくだり。そんなことにも笑える。
そんな芝居のラストは心中。バッドエンドでさえも、この人たちはおもしろおかしく演じてしまうのかもしれない。

うつくしく馬の肥えたる近江かな 鬼頭孝幸
「馬肥ゆ」という季語と「近江」という地名の持つ力を信じていないとこんな句は書けない。私だったら、もっと書きたくなってしまう。馬の毛並みがどうであるとか、瞳がどうであるとか、書きたくなってしまう。書かないと安心できない。しかしこの句は「うつくしく」と書くだけで馬の毛並みや瞳も近江の自然や空気の爽やかさも全部見えてくる。
「美しい」という言葉を俳句で使うのは難しい。嘘でない、飾りでない「うつくしく」を、この句は信じさせてくれる。

水引のひたすらな揺れひよんな揺れ 藤井万里
水引の花が揺れている。その揺れにも種類があることに、作者は気付いた。
一定の風の中に強い風があり、水引はときに大きく揺れる。目立って見える「ひよんな揺れ」のことだけではなく、普段の「ひたすらな揺れ」も書いたのがすごい。読者はそれを見ていないのに、自分が水引を辛抱強くじっと観察しているような、そんな気分になっている。
季語「水引」が素晴らしい。水引の花の長い枝だからこそ、揺れが良く見えてくる。

水鉄砲水いつぱいに入れ沈む 木村定生
〈水に浮く水鉄砲の日暮かな 津川絵理子〉という句にもある通り、普通水鉄砲は水に浮く。空になった水鉄砲がバケツの水の上に浮かんでいる姿は確かに見たことがある。でも、言われてみれば水で満たされた水鉄砲がぐんぐん水の中に沈んでいく姿も、見たことがある。そのことが思い出せたのが、とても嬉しかった。
水いっぱいの水鉄砲が水に沈むというのは科学的には簡単に説明できるだろう。しかし、この句には作者の発見と喜びが溢れている。

この石のあたりときめて草むしり 新井博子
草むしりをするときって、まさにこんな感じだ。よし、やるぞ、と気合を入れる。いきなりむしり始めるのではなく、まずは場所を決める。この人は、この石のあたりと決めた。そこからは、もう一心不乱にむしるだけだ。
草むしりの様子を直接的に書いているわけではないけど、草むしりの様子がしっかり伝わってくる。草むしりの手前の、持ち場につくところから書くなんてすごい。いろんな角度から季語と向き合いたい。
 
木製の救急箱と空蟬と 加藤綾那
「木製の救急箱」のイメージが呼び起こされる。明るい木の色と、緑の十字。閉じるときの音や、手ざわり。
消毒液、ガーゼ、絆創膏などいろいろなものがぎっしりと入った救急箱と、蝉の抜け殻。その二つが響き合ってお互いのイメージを引き立てている。
小学校のころ、キャンプで森の中を歩いたときのことを思い出した。救急箱を持つ人は、なんとなく特別な感じがした。

露草は踏んでいい草墓詣 山口遼也
たしかに、露草は他の花や草と比べると罪悪感なく踏むことができる草のような気がする。咲いている場所も道路沿いだったり、とにかく地味な存在だ。でも、「踏んでいい草」とはっきり言われると少しだけドキッとする。
墓詣という故人を弔う行為と並べられると露草を踏むという行為にも痛みのようなものを感じてしまう。いつも何も考えずに踏んでいた露草をしっかり意識させてくれるのは、「墓詣」という季語の効果だろう。

結局はみんなへちまのやうになる 小鳥遊五月
太宰治の「人間失格」に喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこというオリジナルの遊戯がでてくる。汽船と汽車は悲劇名詞で市電とバスは喜劇名詞というように、名詞を喜劇名詞か悲劇名詞に振り分けていく遊びだ。
この句を読んで、へちまは究極の喜劇名詞なのではないかと思った。老いや死もコメディーにしてくれるような、そんな力がへちまにはある。人間って面白くて愛おしいな、と思わせてくれる俳句だ。

風鈴が風を選んでゐたりけり 山口昭男
面白い句だ。風にも風鈴を鳴らす風と鳴らさない風がある。そのことが、風鈴が意思を持って風を選んでいるかのように書かれている。
擬人法を使った句は難しいが、良い擬人法の句を読むと「言われてみればそんな気がしてくる」魔法にかけられる。そして、物への親しみの気持ち、物を愛おしく思う気持ちが芽生える。
きっと次風鈴が鳴るのを聴いたとき、私は「風鈴が風を選んでゐたりけり」を感じるはずだ。来年の夏、風鈴を見るのが今から待ち遠しい。

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