実は小学生の時、一番わけがわからない授業だったのは国語でした。苦手だったのは算数でしたが、国語はわけがわからなかった。おかげで百点満点(?だったような。)の業者テストで17点という憂き目を見ました。
この時小学四年生、多分、そこそこ読書はしていた方だったと思います。何をするより読書が好きだったわけですから。
じゃあなぜ点数を取れなかったのか。
読んだ本の感想を親と話したりした時、主人公たちのことを一緒になってやいのやいの言っている時、特に齟齬は感じませんでした。つまり、「読めてはいる、しかし解けない」という厄介な状態だったわけですね。
まあ、高校に入って良い参考書に出会い、なんとかなりはしましたが。そうなってみるとですね、そもそも、国語ってなんだろうって考えちゃいます。
考えてみます。評論文とか小説をどーんと提示され、段落ごとに区切り、一文一文・・・思い出すだけでも気が滅入ってくるくらいのものですが、なぜ、そんなことをするのか。
おそらく、文章を「正しく」読み取るためでしょう。
では、誰が、「正しい読み方」なんてものを決めるのか。
そこで登場するのが、国文学者、ではないでしょうか。
文章の書かれた時代背景、筆者の生い立ちから推察し、どう捉えるのが正しいと思われるかを考えていく作業・・・
すると、ちょっとした手落ちが見えて来ます。
授業ではさらっとしかやらない、作者の生い立ち。例えば宮沢賢治の永訣の朝だとか、思想や作風という点では三島由紀夫の美神、大元が漢文という形で存在している中島敦なんかは、背景が分からなければ一文一文丁寧に読み解いていったところでまあ無意味と言えるでしょう。
だってそもそも、そんなふうに読まれる前提ではないんですから。
ここへ投稿している方々も、そうではありませんか?ここで主人公はどう思ったか?察してくれよとは思っても、テストで出して三十字以内で述べてみよとはなりませんよね。まして、隅から隅まで丸裸にしておきながら、筆者自身のことは完全無視なんて、可笑しいなと思うでしょう。
たぶん、国語という授業がもっともつまらなくて、もっとも意味不明な理由、そこらへんにあるんだと思います。たぶん。