• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-6 (長部戒薀篇2)

パーリ仏典 長部ディーガニカーヤ 戒薀篇二巻 片山一良
テーマは、大乗仏教が初期仏教からどんなきっかけで生まれ、何故大きく変遷したのか?その理由を学ぶこと。

長部の他のお経は仏道の意義を手を替え品を替えて説いているが、仏道の部分は共通している。
1)この世は苦しみだけの世界であり、その苦しみの輪廻から脱出するための道は、(他者との関係性よりも自己の根底にある渇愛の認識に始まる)
その渇愛を制御する為に、以下の処方箋を示した

2)出家し、俗世の欲望追求の世界から外れる
3)小戒 殺したり、嘘をついたり、無駄話など基本的な不善を行わない
4)中戒 娯楽、賭け事、贅沢な衣食住から外れる
5)大戒 予言、願掛け、相占いなどから外れる
6)五官からの情報を制御して心に余計な刺激を与えない
7)常に正しい行動と認識をしながらいきる
8)瞑想により寂静なる心を磨く
9)神通力を得る

欲望必携(煩悩具足)の身で生まれた人間がこんなことができるのか?、お釈迦様以外に何人がこの道を進むことができたのか?
少なくも自分の様な庶民には悟りの道は遠い。

血筋の良いカーストでかつ儀礼などに通じたバラモンでないと梵天には行けないのではないか(当時のインドでは信じられていたそうだが)、とかバラモンでなくても梵天に行けるのか、という様な疑問を青年バラモンも世尊に投げかけている場面がでてくる。当時の人も出家の道は途方もなく厳しいものだと感じたのではないかと想う。

2500年前のインドもカーストがあり、血筋がなくても悟れるのかと質問する青年バラモンに対して、お釈迦様は、
「血筋が良くても、欲望にまみれたものが天界に行けると思うか?」と逆質問で、バラモン青年をギャフンと言わせる。

お釈迦様はカーストの理不尽さを論理的に説き伏せているのに、インドには未だにカーストが残っている。特権階級が、既得権を失わない様にあの手この手で悪しき伝統を守っているのか、とも思った。

仏の道はお釈迦さま以外に何人乗り越えられたのだろう?庶民から見てとても不可能に見える。
そんな煩悩具足の庶民であっても、僅かでもその道に近づきたい、そんな気持ちが大乗仏教に繋がったのだろうと納得した。

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