• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-8 (長部大篇2)

パーリ仏典 長部ディーガニカーヤ 大篇Ⅱ 片山一良
テーマは、大乗仏教が初期仏教からどんなきっかけで生まれ、何故大きく変遷したのか?その理由を学ぶこと。

仏教と視点をまとめると、我々生きるものは苦しみの人生を繰り返す輪廻の世界に生きており、その苦しみの世界を脱出するには、渇愛をなくした生活をおくり、現世への執着を超える生き方を選ぶ事、ということかと思う。

ふと起きる疑問は、当時の人々やお弟子さんたちは、輪廻ということを当然として受け入れていたのか?ということである。

この本にパーヤーシー経というのがある。ヴァッチャ王族の人が、人間死んだらおしまい(断見)ではないか(輪廻というものがあるのか)、その証拠はあるのかとカッサバ尊者という世尊のお弟子さんに詰め寄る。尊者は、断見と捉えることは、豚のフンを運ぶことに拘って、運んでいるうちに大雨に遭うことだ、とか、麻糸を運んでいるが目的地に着くと、麻布が置いてあり、持ってきた麻糸が無駄となり捨てざるを得なくなる、とかいろんな譬をして、そんな考え方をやめるべきだとさとす。

お釈迦様なら、以前取り上げた毒箭のたとえのように、死後も魂は続くという常見、死んだら終わりという断見、などについては「そんなことを知っていようがいまいが、生きている人間がすべきことは、この苦しみの人生を越えるための欲望を越えるための生き方を目指すべき」だと応えるのだろう。この尊者は青年の詰問に対して、何とか証明のできない課題に応えようといろんな喩えを考えた、ということかなと思う。

もう一つ分かったことがあった。
原始経典の主なテーマは、渇愛から脱出する為のマインドフルネスな生き方についてである。その後の法華経や阿弥陀経のような極楽や久遠実成のストーリーと、このストイックな修行とどう繋がるかということは、理解できなかった。

この本の中にマハースダッサナ経というのがある。ブッダがクシナーガラという小さな村に遠い昔にあった豊かな王国の話について語る。このスダッサナ王(善見王)は、人民が五欲の喜びを味わえる国づくりをした、そして最後には欲望の消えた涅槃の世界を望んだという。この世界は、今流行りのメタバースのように王が思うだけでいろんな建物や設備が生まれてくる。その美しい国の描写は阿弥陀経の極楽とよく似ている。
後の阿弥陀経にある極楽に繋がるお経が既に原始仏教にあったことに驚いた。

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