• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-11 (相応部有偈篇)

パーリ仏典 相応部サンユッタニカーヤ 有偈篇Ⅱ 片山一良
テーマは、大乗仏教が初期仏教からどんなきっかけで生まれ、何故大きく変遷したのか?その理由を学ぶこと。

片山一良先生の相応部を読み始めた。2、3ページの小さな物語の集合体。

夜叉とかサッカ(帝釈天)など、ファンタジーの様な話が多いので、気楽に読んでいたら、ヴェーパチッテイ経、旗先経というお経に出会った。

内容は、三十三天を率いる帝釈天と、パジャーパティという阿修羅が阿修羅たちをを率いて戦うという話。
阿修羅王が負けて、帝釈天サッカ王に暴言を吐くが、サッカ王は黙っていた。御者のマータリが、言い返さないのは、阿修羅王が怖いのか、耐えているのかと、問う。
サッカ王は、智者は愚者とは競わないという。
マータリは、
「制するものがいないと愚者は勢いづく。重い罰で賢者は愚者を制するべきなり」

それでもサッカが静かにしていると、マータリは
「愚者は、彼は我を恐れて耐えているとおもい、増長する」と畳みかける。

サッカは
「愚者の力があるならば
それを無力の力という
力を備えた法護者に
逆らう力は知られない

怒りに怒り返す人は
それによって悪くなる
怒りに怒り返さねならば
勝利しがたい戦いに勝つ

他者が怒ることを知り
念を備え静まるものは
自己の、そしてまた他者の
両方の利益のために行く」

怒らぬことにより、勝者も敗者も共に利益の道(つまり、怒りが増幅していくのとは反対の道)
に行くことが出来るというはなしだ。

1951年のサンフランシスコ講和会議にて、スリランカのジャヤワルダナさんが、ダンマパダの言葉を引用して、日本の戦争責任の放棄をスピーチした。「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」と語った。
このスピーチは、インドの哲学に基づく深遠な思想が背景にあることを世界の人々に感じさせたに違いない。注釈

これまで初期仏典を読み進んだが、内省的な仏教の生き方を問うものばかりで、他者との関わりを諭すものは殆どなく、ましてや他者への寛容を謳う話もなかった。生き方を内省に求める宗教から、他者への寛容な思想とがどう繋がって出てきたのか、頭の中で繋がらないモヤモヤを感じていた。が、この小さな経典から、貪瞋痴の制御と愚者への対応という観点から、この寛容の思想が生まれていることが分かり、ダンマパダの言葉がやっと腑に落ちた。

旗先経というお経もサッカと阿修羅の戦いの話だ。話がとんでしまうようだが、日本の浄土真宗や法華経などと、初期仏教で説かれる教えとの違いにいつもモヤモヤしていた。
後世の日本宗派では、「おがむ」ことが基本にある。ここでは病気平癒や学業増進など、もちろん他人の幸せを阻害するものはダメだが、個人や家族の利益や来世安楽などを願って念仏することは習慣づいている。しかし、初期仏教では、輪廻の原因となる貪瞋痴をなくすことが根本であり、現世の幸せを祈ることは、渇愛を増やし苦悩を再生することになるので、薦められない。
初期仏教でも念仏、つまり仏を常に思うということはあったのだろうか?
このお経では、サッカの様に貪瞋痴を持った人を心に描くより、仏の様に貪瞋痴を超えた人を思い描くことが、恐怖を超えることになると説いてあった。貪瞋痴を無くした仏をロールモデルとして心に思い続けて、それに近づこうとすること、これが本来の念仏だったのだろう。

人生の目の前の苦悩や困難を乗り越えたい、という気持ちを庶民はすてきれない。それを捨てさり涅槃を目指すという初期仏教の目的は高邁すぎて納得されなかっただろう。来世よりも先ずは、他者と助け合いながら渇愛をできるだけ抑えて現世の苦悩を減らしていこう。その結果として極楽や涅槃に近づいていこう、という現実主義的な形に変わっていったのではなかろうかとおもった。

大乗運動はなぜ興ったのか、その背景をかんがえている。初期仏教は、庶民の現世の問題解決からは遠く、出家した個人だけが成し遂げられる困難な修行だったので、なんとか仏の教えの中から現世の庶民の生き方の改革に繋がげたいというモチベーションが生まれたのだろうということではないかと思う。

注釈
お釈迦様の戦いに対する対応。
マガダ国のアジャータサッツ阿闍世王が、叔父であるコーサラ国のバセーナディ王と戦うために、カーシ国に攻め入った。バセーナディ王は負け城に逃げ帰った。それを聞いた世尊は、
「勝利は怨みを生み
敗れては苦しく眠る
ただ勝敗を捨て去ってこそ
静けく楽しくも眠れるであろう」
その後、バセーナディ王は、アジャータサッツ王の軍を撃退したが、その軍自体を奪いさったが、彼を放った。それを聞いた世尊は、
「おのれに利のあるかぎり
人は他を掠めて止まず
また、他に掠めらるれば
他もまたとりかえす
愚者はその悪の実らざるかぎり
そを当然のことと思う
されど、ついにその悪の実る時
彼はその苦しみを受けねばならぬ
他を殺せばおのれを殺すものを得
他に勝てばおのれに勝つものを得
他を謗ればおのれを謗るものを得
他を悩ませばおのれを悩ますものを得
かくて業の車は転がり転がって
彼は掠めてはまた掠めとられる」

ジャヤワルダナさんの演説の基本ベースは、このお経だろう。先の話は、釈迦の主題とする内省的な貪瞋痴と非戦との関わりを示す言葉だったので引用した。

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