• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-9 (中部後分)

パーリ仏典 中部マッジマニカーヤ後分五十経篇 片山一良
テーマは、初期仏教から大乗仏教に大きく変遷した理由を学ぶこと。今回は片山一良先生の本の中部の5.6巻目。

初期仏教と大乗仏教とを比較すると、前者は出家し戒律と瞑想により安楽な来世のために現世での業を清めることが中心で、言い換えると自分が来世に再生した自分(同一性を認識できない別の未来の人生を生きる自己)の未来をどうするかというテーマだと思うが、後者の場合は、現世の庶民や他者救済が動機になっていると思う。
初期仏教から大乗仏教へと大きく変化がおきるきっかけ、そのきっかけになる様なものがあったのではないか?と思っていたのだが、、、

第129 賢愚経というお経がある。これが、大乗仏教へのバタフライイフェクトとなったのではなかろうか?、と思った。
内容は、身語意(普通は身句意というが)要するに身体や行動、発言、心の思いを全て清らかな生き方をする事を勧める。もし、これを護らず、殺生、悪口、嫉妬などの生き方をすると、この世で罰を受けるだけでなく、来世は、畜生や虫の境涯に落ちたり、地獄でその業が尽きるまで罰をうける、また業がつきても短命や病気になったり、屠殺者や清掃者の身分になる、とかいてあった。

最後の部分は古くからカースト制度のあるインドならではの話だ。インドでは未だにカースト血筋よってつける職業が決まっている。(インドでIT産業が盛んなのは、ITはカースト制度の職業リストにないので、優秀な低いカーストの人材が入って来れるからだと、先日も報道されていた)

昔から宿痾の病という言葉があり、小さい頃近所の爺婆が、前世良くない事をしたのか結核になった、なんて会話をよく聞いたものだ。いろんな不治の病が昔は多くて、それを何故前世のせいにするのかなと思っていたのだが、お経にもそんなことが書いてあったのだと驚いた。勿論、お釈迦様は、今世での清らかな正しい生き方を薦めるためにこの様におっしゃったのだと思うが、少し前の庶民の多くは、今世でも病気のない安楽な暮らしを送りたいが不治の病になったときに、(病を無くす手立てをかつては多く持たなかったため)その理由を前世の業に求めることしか納得しようがなかったのかなと思う。(昔は不治の病と言われていた多くの病が、今は治る様になって私達はなんと幸せな時代に生きていることか。まだ多くの不治の病や先天的な病が多く、苦しんでいる人も多くいる。しかし、いつかは遺伝子治療の進歩で、これもいつかは治せそうだ。そうなった時に、庶民にとっての宗教の意義が、手立てのない病気に対する治癒への祈りから本来の目的だった正しい生き方の追求へと変わるかもしれない。)

お釈迦さまの時代なら、不治の病の人を前にして、出家して清らかな人生を歩み、来世は安楽に暮らしなさいという指導は唯一の救いだったかもしれない。しかし、その時代でも来世ではなく、今世の目の前の苦しみをなくしたり、減らすことができないか、苦しむ隣人の身体と心を救いたいと思った人も多くいたのだと思う。忍性という律宗のお坊様は、この様な人々を救うために今でいうサウナや介護施設の様なものを作り、それが奈良にも残っている。(忍性様は大乗仏教僧の中で個人的に最も尊敬する方だが)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%80%A7
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%96%93%E6%88%B8

先ずは自ら清い生き方をしなさい、とお釈迦さまは指導された。出家が庶民に清い生き方を教えることが慈悲の中身であり、忘己利他のような自己犠牲は強調してなかった。(清い生き方というが、お釈迦さまの期待レベルは高く常人はとても不可能だが)それでも、なんとか庶民も救いたい(救われたい)と思った人たちがいて、それが大乗仏教に繋がったのかなということが、朧げながら理解できた。

誤解があるといけないので追記しておきたい。
忍性さんを持ち出したけれども、初期仏教と大乗仏教と優劣を比較しようとしているわけではない。輪廻を越えるために、自らの欲望を抑え、永遠の自我や渇望を否定して、清い生き方をすることが仏教の根本であり、それが最も大事であることは揺るがない。しかも、それが庶民にはとても不可能な超人的な厳しい修行の道であることは分かっている。
自己を制御するだけでもとてつもなく大変なことなのに、大乗仏教が理想とする利他なる菩薩業は、さらに苦難の道だ。
最澄、空海、忍性、法然、道元など、日本の大乗仏教にも多くの聖人がおられ、その方々の生き様を知ると、大乗での菩薩業は本来は初期仏教の涅槃への修行にもまして途方もない困難な道だと知る。庶民にとっては、小乗でも大乗でもその出家修行の生き方はとても困難な道だ。その後の日蓮宗や浄土真宗などは、本来の大乗仏教の目指すものとは違って在家庶民のために簡略化され、本来の仏教とは全く異なるものになってしまったが、庶民が仏道に触れその価値観に触れること自体が素晴らしいことであり、世代が変わっていっても継続する為に必要なことだったのかな、と感じている。

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