• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-10 (長部パーティカ篇)

パーリ仏典 長部ディーガニカーヤ パーティカ篇片山一良
テーマは、大乗仏教が初期仏教からどんなきっかけで生まれ、何故大きく変遷したのか?その理由を学ぶこと。

片山一良先生の長部と中部を読み終わった。

お釈迦様の発見したものは?
人間の生きる世界は、一切皆苦、生きることはままにならないことばかりで、一見楽しいと思うこともあるが、快楽を得ると今度はそれをなくす苦しみがうまれる。つまるところ、この社会は苦しみばかり一切皆苦だと悟った。
その原因を自分以外の他に求めるのでなく、この世の中に夢を抱き、それに執着する自分の心の渇愛であるとした。
それを超えるためとして、渇愛をなくすための、戒、定、智慧を学ぶという出家修行という手段を示した。ということに要約できるかなと思う。

世紀経というお経には、カーストにおける四性(クシャトリア、バラモン、庶民、スードラ、それは前世の報いとしてそのカーストに生まれると信じられていた)の中で、バラモンだけが神の口から生まれ梵天に再生できる(と、バラモン達は信じていた)。そのバラモン青年たちに、間違いを諭す。
バラモンであっても、殺生、盗み、悪口、などの悪行をする人が、梵天に生まれるのか?と突きつける。さらに、その他のカーストでも、さらには出家した沙弥でも悪行をすると地獄に行くだろうという。
逆にスードラであっても、悪行をしない聖業を生きるなら梵天に生まれる、という。
つまり、生まれや血筋は天国に行くか地獄に行くかという来世に関係なく、その人の今世での生き様による、と悟り教えとした。

ここまで読んだときに、この教えが、中国やその後の日本に伝えられたとき、どの様に理解したのだろうか、と想像してみた。

教えの根本となる一切皆苦という捉え方を、災害が多発し、地震や飢饉で苦しんでいた日本人は納得できたのではないかと思う。
しかし、インドの様な輪廻を超えたカーストを日本人は信じられたのだろうか?
東日本の津波の映像を見たときに、流されて行くクルマや避難を誘導しながらも流されていく人を知り、この人たちの中には悪行をした人も、心の美しいひともいただろう、善人も悪人も一緒くたに命を奪う天災をみていると、インドの様なカーストが日本には育たないのではないかと思った。日本にはほとんど農民ばかりで、助け合うことなしにお米を作ることも災害をこえることもできないだろう。

転輪王経には、さらに梵天に生まれた人は、この世に再生すると転輪王としてうまれ、五欲を満たす人生を歩めるだけでなく、周囲の国を戦争で殺しあうことなく征服できる、とある。
当時のインドは多くの小国が林立しており、王として生まれることは、庶民を惹きつけたのだろうか。(中国では、仏教は権力者に保護されたり迫害されたりしたが、民衆化はされなかったようだ。統治者の喜びそうな利益を描いたこの様なお経の影響か)
万世一系の天皇制の続く日本の庶民にとって、戦国時代ならともかく覇王として生まれることを願う人はどれくらいいるんだろう。

カーストの続くインドと違い、現在の日本では職業選択の自由があり、前世の報いといわれてきた不治の病もかなり乗り越えられみな長寿にもなってきた。この世の苦しみを乗り越えるために出家するという動機の強さは昔とは違ってきているかもしれない。

日本に仏教が伝わったときに、天災や不作のないこと、政治的な闘争をおさめるための呪術としての価値を重視していたそうだ。
信仰の目的が、本来インドでは輪廻からの克服だったのが、日本では現世の問題を解決する呪術としての価値であり、出家することによる自己の輪廻の克服という個人的目的よりも、加持祈祷による鎮護国家が目的だった。その後、社会や他者のための菩薩行を強調する大乗仏教に重心が移ったのは、身分制度の少ないこと、災害の多い国だということ、農耕民族だというこたが理由なかと、おもってきた。

この世紀経というお経は長いお経で、カーストの無意味さを説いた後、急に違うテーマのお話に変わる。人類が欲望追求で生物全体が滅んだ後の再生のステップが書かれている。線虫の様な原始的な生き物が、美味しい土を求めて生き始めるが、その土によって渇望をすでにもってしまう。その後、稲が生まれて農耕が生まれ、セックスと欲望、恥の感覚から家族が生まれる。そうやって細胞としての生命欲、渇望が進化して人間や社会が生まれる。生物の進化をこれまでリアルに描いたお経だということを初めて知っておどろいた。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する