• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-4 (中部中分4)

パーリ仏典 中部マッジマニカーヤ 中分五十経篇 片山一良

この本の第86話にアングリマーラ経がある。
アングリマーラ(指鬘外道しまんげどう)は、多くの人を殺害しその指を首飾りにしていた兇賊だった。彼は元、若く純真な青年だった。美しい姿だったために人妻に言い寄られ、その亭主から怨みをかい、常習の人殺しとなる。(この話は、手塚治虫の仏陀に劇的に描かれれている)名前の由来は指を首飾りにしている人という意味だそうだ。釈迦の生き様に触れて出家した。
釈迦はこの殺人鬼と恐れられていたアングリマーラの出家を許した。彼が乞食していると、ある婦人が難産で苦しんでいた。出家はそれを見て、人間は可哀想だと思い、どんな声をかけるべきか迷ってしまった。世尊は、こう告げよと言った。「わたしは生まれてこのかた、故意に生けるものの命を奪ったことを知らない。この至言によって汝安らかなれ、安産なれ」
アングリマーラは、それは妄言になるのではないか、私は故意に多くの生命を奪いました。
世尊は、ではこう告げよといった。
「わたしは正しい生を得てこのかた、故意に生けるものの命を奪ったことを知らない。この至言によって汝安らかなれ、安産なれ」
それをアングリマーラが婦人に告げたところ、婦人は安産に出産できた。

その後の逸話があった。出家はしたものの、アングリマーラに石や棒を投げつける人がいた。出家は傷ついた。世尊は出家に言った。「忍受するが良い。そなたの行為の果報によって、幾年も、幾百年も、幾千年も、他生において受けねばならぬ業果を、いまこの現生においてうけているのである。」

釈迦の見つけた真理は次の様に訳せるだろうか。、生きとしいけるものはすべて、欲望を持って生きる様にプログラミングされている。その欲望への執着が苦しみの世界への再生を引き起こしているということ。アングリマーラの逸話は、この様な罪を犯したものも釈迦の真理を悟り、出家として欲のない生き方に変わるなら、再生のない寂静涅槃への道が開かれるということ。それは罪深い人間にとって有難い希望である。

最近、ネット犯罪や戦争が起こってしまい、悲惨な映像を見ることが多くなってしまった。罪のない子供や庶民が傷ついている姿を見て、ふと思ったことがある。アングリマーラに殺された多くの人は救われたのか?ということだ。今回の戦争でもその動機を領土や民族の自立や信条だと説明しているが、この様な概念のと無関係のない人々が死んでいることに、不条理を感じる人は多いだろう。お釈迦様の生きた時代もこのような戦争があった。その時にお釈迦様はこの理不尽な生死に対してどう考えたのだろうか?
二つの国が戦争に至らぬ様に説得しようとしている言葉もあり、今戦争で苦しむ人へ来世への救いを説いている言葉もあり、戦いの後に起こる復讐心が戦いを永続化させることを説く言葉もある。

戦争によって誰も幸せにならないということを知りながら、何度も戦争を繰り返す人間の性を見据えながら、永遠の幸せは涅槃にしかないという認識を悟りというのだろうか?

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