• 創作論・評論

パーリ仏典ノート-2 (中部中分2)

中部マッジマニカーヤ2 中分五十経篇 片山一良
。初期仏教から大乗仏教に大きく変遷した理由を理解したい。

この本にある有名なお経は、毒矢の教え(小マールキア経)だろうか。世界は常住か無常か、有限か無限か、死後は存在するかしないか、などなどの形而上の議論を延々とやっているひとたちがいる。世尊が、それを見て指摘する。毒矢に刺された人が毒矢の種類が分からないうちは毒矢を抜かないと言っているようなものだよと。そんなことを議論する前に、短い人生の苦しみをどうやって乗り越えるかを考えるべき、ではないかと問いかける。

人生の哲学的な疑問よりももっと大事なことはなんなのか、という趣旨のぶれない説話が繰り返し述べられる。
人生は無常であり、そこに幸せを求めても最後はその願望をあきらめるしかない。世尊はその虚しさを乗り越える方法を求めた。そして瞑想を通じて太古から人生を感受し、人は苦しみの世界を輪廻する姿を感受できたそうだ。この虚しさや苦しみの本質は、得られないものを求める根源的な願望(無明)にあると悟った。生まれ変わり苦しみの世界を輪廻する執着から外れるには、欲望を根底から無くしてしまう戒のある善なる生活と、とらわれのない心にあるかどうかをモニタリングして生きる覚醒の維持だと述べている。
世尊が止観によって悟って実感した、輪廻、欲望の執着、それを乗り越える道について、それが真実なのかありとあらゆる側面から弟子が問いかける。
世尊は、自分の瞑想体験を元に、出家と修行と涅槃しかこの輪廻から脱する道はないと、説く。

いくつか疑問が湧く。一つは、仏教は自己の欲望を超えることを人生の究極の課題と見切った。そのまてに社会や他人との関係はあまり語られていない。目の前に人生の苦しみに喘いでいる人がいる。その人達に対して、輪廻を超える道を伝えること、それが慈悲と言えるのかということだ。
まさにその疑問を持った比丘がいた。
世尊が慈悲が大事だというのに、内面の心の有り様を問う生き方、他者に働きかけない生き方は、本当に慈悲のある生き方なのか、とある比丘が問いかける。それに対して、世尊は、苦しみの原因とそれを乗り越える道を教えることは慈悲に基づく行為ではないのか、と逆に問う。
ある一人の比丘の質問は、世尊いう様に戒を守り止観瞑想を努めることにより、世尊と同じ様な悟りを得られるのかということだった。(三明ヴァッチャ経)世尊は、戒を守り、瞑想をし、教えを学ぶならば、出家ならば生まれ変わりはなくなる。しかし、在家の人でも、天界に生まれることはあっても涅槃には至らないと明言している。

瞑想によって、これまでの輪廻をイメージ出来たり、人の心を認識できたり、善人が天国に生まれたり不善者が地獄に生まれるドラマをイメージできるという神通力については、後の宗派や新興宗教でも同じことをいっている。
ここで気がついたことがある。世尊が涅槃寂静を究極の目的にしてある意義だ。神通力を得ることを目的とした新興宗教では精神的な高低を生み、結局は欲望や差別意識を掻き立てる。世尊は、神通力を手段としてその先の欲望からの超克をめざした。神通力を得て、それでマウンティングする心持ちを増上慢として諌めている。

初期仏教の経典で世尊の語ることは、一貫している。が、庶民がそれに至るのはほとんど不可能なものだということは分かった。
それが、なんとか誰でも悟りに近づける様に解釈(拡大解釈?)していったのが、大乗仏教が生まれた一つの背景なのかな、と感じた。

キリスト教では、この世は欲望のぶつかる苦しみの世界であるという点は、仏教の世界観と共通するが、その矛盾や苦しみを他愛を通じて積極的に改革することが、原罪を乗り越える道だと捉えているところに違いがある様だ。
仏教の信者も、自己の欲望の制御だけでなく、他者への積極的な慈悲(菩薩行)を仏の道だと拡大解釈していったのが大乗仏教に繋がったのかなと、思う。

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