「花旦綺羅演戯 ~娘役者は後宮に舞う~」(
https://kakuyomu.jp/works/16817330647645850625)、第八章「白鶴、泉下より舞い上がる」に突入しております。エピローグを除くと実質的な最終章になっております。燦珠の大舞台を見守ってくださいますように。
(今回の裏話は八章第3話 喜燕、涙する 読了後に見ることをお勧めします)
本作の冒頭から、何度か「役者が偉い人や金持ちに無理難題を言われた/ひどい目に遭わされた」という描写をしております。まったく同じエピソードではないし、誇張も含まれるのですが、京劇について調べると現実も割とそんな感じだったことはよく窺えます。いくら技術が高く、名声をほしいままにしたとしても、役者業が水商売であり、しばしば蔑まれるものであったことは時代や国を問わずおおむね共通しているようです。
京劇を好んだ歴代の清朝皇帝の逸話を見ても、(ソース不明なものも多々ありますが)役者の片言隻語を理由に死を賜った雍正帝、反満州族的言論の弾圧の一環で芝居の脚本の検閲も行った乾隆帝、役者が方言を使ったのを嫌って褒美を取り上げたり杖刑に処した嘉慶帝、等々の酷いエピソードが満載です。初期の名優・程長庚は、高官に無理に演じさせられようとしたのを断って、舞台の柱に縛り付けられるという辱めを受けたエピソードがありますが、「子孫は(役者ではなく)読書人の生活を送って欲しい」と言い残したそうです。拙作中において、梨詩牙が娘を権力者に関わらせたくないと思うのも無理はなさそうです。
特に、権力の強大さと京劇への耽溺振りで他の追随を許さない西太后は逸話が豊富です。twitterで紹介したこともありますが、個人的に以下のエピソードがとても味わい深いと思っております。
丑(道化役)の名優・劉趕三が西太后の御前で演じた時のこと。臨席していた三人の親王(皇族)を妓女に喩えて弄るアドリブを行った。ひとりは笑った。ひとりは不快には思ったけれど我慢した。ひとりは我慢せずに劉を打たせた。
……「そんなひどい」と「なぜ許されると思った」の想いが相半ばします。言論の自由って大事ですね。面白いと思ったらGOしてしまうのが役者なのかもしれないし、思い上がりがあったのかもしれません。
とにかく、役者の根性とその扱いの軽さを象徴するようなエピソードのように思います。
このように、古くから役者はリスクや蔑視に耐えながらも舞台に登っていたのですが、怪我を負った時にどうするのか、という話も当然出てきます。やっと喜燕の話に関わってきます。
京劇について学んでいて驚いた、というか震えあがったエピソードのひとつに、蓋叫天の足のエピソードがあります。舞台上で足を折る怪我を負った彼は、観客に気付かせないまま片足で演じ切ります。ここまででも十分すごいのですが、さらにその後、一応は完治してギプスを外したところ、なんと骨の継ぎ方が間違っていて、医者には「もう一度折らないとどうしようもない」と言われてしまいます。それを聞いた蓋叫天は、迷わず自らもう一度足を叩き折り、正しく接ぎ直させた、とのこと。この時すでに五十歳近かった彼ですが、必死のリハビリの結果、数年後には見事舞台に復帰して万雷の拍手で迎えられたそうです。
文字で見るだけで怖い話なのですが、花旦綺羅~の最新話を読んだ方には大体何が言いたいかお判りでしょう。そう、役者は足が折れたくらいでは諦めないのです。(諸々のスポーツ競技等を考えても、故障即引退ではないですよね。やむを得ない場合はあるにしても、復帰を模索はするはずですよね)喜燕は若いし、手を汚してしまったからもう駄目だと思っていたのでしょうが、玲雀側ではたぶんそんなことなかった、のかもしれません。ふたりのその後は、本編完結後の番外編で触れる予定ですのでお待ちくださいますように。
なお、上述の蓋叫天、後に日本軍に協力を求められた時に、この時の足の複雑骨折の傷痕を見せて「こんな傷を負ったのでもう演じられません」と言って逃げたとのこと。役者の矜持も強かさも感じるエピソードで本当にすごい、の一言です。