第五回こむら川朗読小説賞(
https://kakuyomu.jp/user_events/16817139556453736660)に参加していた自作語りその2です。
今回は2作目「放蕩者の末路」(
https://kakuyomu.jp/works/16817139557768941996)についてです。太平洋戦争末期、学徒動員で特攻隊として散った若者の生きざまを描いた作品です。
こむら川という企画の特色を改めて説明すると、
・審査員三名の講評がつく
・大賞は朗読&FAがもらえる
・大賞の選定は審査員による投票で決まる
……なので、好みの異なる審査員に刺さらなければいけないのですが、ほかの方の作品も上手い・面白い・すごいものが揃っているし、読む順番やタイミングも関係するし、何が受けるのかはまったく分からない状況なのでした。
前回の近況ノートで述べた通り、それでも1作目は審査員の好みに沿って考えたのですが、2作目は何も分からなくなった結果「とりあえずエモくしてみよう」という方向で考えたものです。
あと、「男性一人称」の自作過去作を振り返った時、アウシュヴィッツのバイオリニストを描いた「レクイエム」という作品が自己評価でもよくできているし褒めてもらったことも多いな、と思い起こしたので「戦争の悲惨をシニカルな目線で語る人」という方向性が決定しました。この時ちょうど8月前半で、終戦記念日が近づいていたこともありますし。
平和な時代しか知らない者が語るのもおこがましいですが、戦場の悲惨や銃後の貧困、離別の悲しさ等々をあからさまに描くよりも、そういう風潮をあざ笑うように生きた人がふと漏らした本音のほうが作品としては見た人の胸に「刺さる」と思うのですよね。
「放蕩者~」で題材にした「入営直前で祝言をすっぽかす」「愛人のもとに入り浸る」放蕩学生の像は、以前夢で見たのでいつか使おうと思ってメモしておいたネタです。夢で、見たんです。
語り手を関西弁にしたのは、大賞得点で朗読してくださるVtuberさんが関西弁の方だったからです。あと、この語り手の斜に構えた雰囲気に合うんじゃないかな、という意図ですね。私は関西弁ネイティブではないので偏見も混ざっているかもしれないですが。
講評を拝読したところ、「エモで刺す」狙いはあるていど成功していたようで良かったです。が、200作超の作品がひしめく中で一歩抜きんでるにはエモだけでは足りないんだな、という印象です。普通に上手い、だけでは大賞選考には絡めないのがムズカシイ。
特に謎のお姫様からのご指摘で、妖精王~と共通して冒頭から分かり辛かったのはマイナスポイントだったのかな、と思います。一行目から読者を惹き込んで加速、次回は意識してみたいです。
以下、講評のご指摘への回答です。
・関西弁の主人公が、一人称の地の文では標準語なのは?
→最大の理由は私が関西弁ネイティブではないので手に余るからですね! あと、謎のお姫様もご承知くださっていた通り、全編関西弁だと読みづらくなりかねなかったので……。有栖川有栖先生の作家アリスシリーズでも(学生アリスは読んだのが遥か昔で記憶が曖昧)、地の文は標準語だったと思うので、お約束としてこうです、と思ってもそんなに間違いではないと思います。
・この語り手が特攻隊に志願したのはやや不自然では?
→「妻子の写真をお守りにしている連中よりもずっと、身軽だろうからな。」で示唆したつもりだったのですが、「終戦まで時間稼ぎすれば妻子がいる奴は生き残れるのでは?」という計算を働かせたのがコイツです。そんなヒロイズムも、土壇場になると吹き飛ぶのですが。
なお、多恵と語り手は幼馴染だったという設定です。直文の放蕩に心を痛めつつ、仮の祝言とは知りつつ、彼女は喜んでいた……はずだったのですが。戦争がなければ親に殴られつつも多恵に謝って夫婦になる未来もあったかもしれないし、あるいは志乃のところに転がり込んで「似てへんやん俺の子ちゃうやん」とか言いながら子供の世話をする未来もあったかもしれないのですが、そうはならなかったのです。それが戦争なのでしょう。
最後に。冒頭で述べた本作に通じる空気のある過去作「レクイエム」(
https://kakuyomu.jp/works/16817139558264146948)を参考までに(?)カクヨムでも後悔してみました。3000字もない掌編なので、サクッとお読みいただけると幸いです。