• 歴史・時代・伝奇
  • エッセイ・ノンフィクション

日曜日のNHK

 年が明けて2週間が過ぎた。今年は元日早々の能登半島地震もあって、落ち着かない年の始まりとなった。震災に見舞われた方々は誠に気の毒で、取り分け日本海沿岸の冬の寒々しさ(寒いと言うより寒々しい、雪と風と憂鬱な空模様)を身に沁みて知っている人間としては冬に避難生活を送るのは本当に大変だと思う。
 日本海側は度々大きな地震に見舞われている。1964年の新潟地震のときには僕も新潟市内に住んでいた。まだ小学生になったばかりだったが、あの地域は沖積平野ということもあり、地震が起きたとき本当に地面がうねったのを今でもまざまざと思い出す。海外近くに住んでいたのでもし津波が来ていたら今生きて居なかっただろう。家の近くにあったアパートがまるで巨人の子供が遊んだあとの積み木のように横様に倒れていた景色も未だに目に焼き付いているし、昭和大橋が途中からぽきんと折れていた事も覚えている。コンビナート火災も長い間続いて空の色はこの世の終わりを告げているようだった。
 今回も平野部では同じような液状化現象が起きたようである。しかし、新潟地震は初夏であったし、今回の能登のように山間の海崖線を襲う地震と津波の複合被害ではなかった(火事はあった)こともあり、今回はあの時とまた別の種類の困難さがあるだろう。
 We stand by you.と大声で叫んでも仕方ないし、この身で今、能登に行っても役に立つどころか足手纏いになるのは明白なので、今はそっと見守っていくしかないが、いつかは何らかの形で貢献したいと思っている。(逆に地震の際に大騒ぎして震災に使われる公金を掠め取るような輩やこそ泥紛いの行為をする卑劣漢を排除するようにという点でも見守りたい。東日本大震災のとき、まことに日本の道徳の低下をまざまざと感じさせられる事象が数多くあった。輩だけではなく企業でもそういう事例があったのは残念なことだ)

 もちろん未だに被害は継続しているし、おそらく本当の解決まで数年・数十年単位で続く事になるだろうが、東日本大震災と違って原発の被害がなかったのは幸いで(そもそも志賀原発も刈羽も稼働していなかったのでもし稼働していたらどうなっていたのかは想像が付かないが)インフラの回復さえ進めば何らかの目処をつけることができよう。

 元日夕方の正月番組が全て飛んだのは当たり前だし、致し方のないことであったが、結果的に幾つかの番組を聞き損なってしまった。ウィーンフィル(今年はティーレマンの指揮らしい)のニューイヤーコンサートなどもその一つで知らぬうちに六日にリスケジュールされていて残念ながら見逃してしまった(もう一度再放送されるらしいが)。クイズ番組とかお笑い番組はいつみても同じような面子が同じような結果をだすので別に構わないのだけど見逃したら残念な番組というのは確かにある。今は見逃し配信みたいなのがあって便利なようだが、スマホゲームと並んで「時間泥棒」になりかねないので遠慮しているのだけど。
 とにもかくにも、そうした混乱を経て2週間後ようやくテレビ番組も落ち着いてきている。
 大河ドラマも始まった。今年は紫式部をフィーチャーしたもので2話目では成人した紫式部と藤原道長が再会するという場面がある。紫式部と藤原道長は同時代で道長が紫式部を好きだったという説は有名であり(この時代の男女関係のありようを考えると)実際関係があっても何の不思議もない。しかし昨年の徳川家康と比較して史実がどうのと早くも珍妙な比較を始めた外野がいるのは笑止である。
 今回の番組が前回と比べて史実に忠実だとは全く思わない。2話目でも吉高由里子さんが京都の街中を走るシーンがあったが、そもそも紫式部が(宮仕え前とは言え)街の道を走るという景色はどう考えてもありそうにない。
 あの時代の平安京は人口が10万とも30万とも言われているが、盆地で狭隘な地であったに関わらず人口がかなり多かったため不衛生な都市で、特に下水が全く整っていなかった。(せいぜい条の上の方では屋敷の中に水を引き込んでいたところがあったくらいで、下級貴族以下が住んでいた条の下の方や長安、ないし右京側は水の下手にあるためにとても穢い状況で今の錦小路がかつて糞小路と呼ばれたのは具足小路が訛ったといわれているものの実際に糞だらけの道であったには違いない)。そこら辺の汚さは源氏物語には書かれていないけど「落窪物語」などには男が女に通う最中に糞だらけの道に踏み込むなどという情景が描かれている。
 紫式部の父為時は下級貴族で、一条近くの高級住宅街にすんでいたわけではなく周辺の景色もそれらしくはなく描かれている。そんな所を少女が視線もまっすぐに走るなどと言うことはまずありえない。さもないと足が汚物だらけになりかねないのが時代の背景である。もっと言うと死体とかが平気で放置されていた時もあるのだ。
 それ以前に、ショートの女の子が元気に通りを走ってバイトをするという情景は紫式部ではなく令和の吉高由里子の姿そのものであり(それはそれで魅力的であることは否定しない)、画面に福山雅治が白衣で出てきて「じつにおもしろい」と呟 いてもさして違和感がないくらいである。
 平安時代の京都がどんなであったのかくらいはあるていど想像できるし、おそらくそこらへんの状況はNHKも脚本家も、おそらく時代考証をしている人も重々承知の筈である。
 そもそも平安時代や江戸時代をそのまま持ってきたら画面もドラマも成立し得ないのだ。脚本の面白さは好みで云々しても構わないが時代考証を安易に持ち出すのは恥ずかしいし、そもそも時代考証の細部は本当のところは「分らない」事の方が多いのである。歴史学とか時代考証というのは大凡そうしたもので、「分らない」からこそ、関係者がそこそこ勝手なことを言って盛り上がれるというビジネス面を有している。まあ、そう言ってしまえば身も蓋もないし、大本がそうである以上外野がああだあのこうだの、言うのも仕方ないという側面もあるけれど。

 番組が終わると今度は、民放で西島秀俊さんが主演の指揮者を主人公にしたドラマがある、というので見始めたが、最初の掴みで(僕個人としては)「掴まれなかった」ので、即座にEテレに切り替えた。こっちはベルリンフィルの公演だものね。クラッシック音楽好きなら迷わずにこちらにするのが本道です。つい迷ってしまった自分が呪わしい。
 ペトレンコの指揮するベルリンフィルである。ペトレンコという指揮者は名前でしかしらなかったが、サイモンラトルの後任としてベルリンフィルの楽団員から選ばれたのだからそれなりの実力者なのであろう。ウィーンフィルをティーレマンが振ったりペトレンコがベルリンフィルを振ったり、一時代昔のクラッシック音楽愛好家としては随分と景色が変わったが景色そのものは変わっても音楽さえ良ければ構わない。
 最初はモーツアルトのイ長調。まずコンマスが女性なんだ、と思いながら見ていた。カラヤンの時代に首席のクラリネット奏者にサビーネマイヤーを抜擢しようとして楽団員の反対を招いたとき、彼女の実力を考えるとベルリンフィルよ、お前もまだ男女差別をやっているのか(その頃ウィーンフィルは女性団員を迎えることさえしていなかったので更に悪い)と思ったが指揮者だけではなく団員の景色も変わっていたのだ。
 とはいえ、モーツアルトの交響曲はあまり感心できるパフォーマンスではなかった。昔のカラヤン時代のベルリンフィルとは違って編成がずいぶん小さいのは時代の流れであろうが、ベルリンフィルと思えぬほど音の密度がない。小編成の場合、音の密度が小さいとスカスカに聞こえるし、その上指揮者が神経質な棒なので更に貧弱に聞こえる。カラヤンのモーツアルトと反対の意味でモーツアルトを楽しめない。モーツアルトというのは実に難しい作曲家で曲によってはカラヤンとかクレンペラーとかフルトヴェングラーとか錚々たる指揮者が敢えなく「爆死」するので仕方ない側面もあるが。
 次いで演奏されたベルグの「管弦楽のための3つの小品」。こういう曲が演奏されるのは結構なことで、バルトークやストラヴィンスキーのみならず、シェーンベルクやベルク、或いはプロコフィエフくらいまではもう少しプログラムに乗ってきて良い。ツェムリンスキーとかニールセン、ルトコフスキーまでとは言わないけど現代音楽はプログラムに一つずつくらい入れておくようにしないといつまでも耳に疎い音楽のままである。青少年のための演奏会以外では義務的に演奏を入れるくらいにしないと・・・。「管弦楽のための3つの小品」あたりはそろそろみんなが「聴いたことのある音楽」に入っていかねばならない。こうした曲の演奏を評価するのは難しい面もあるが、とにかくプログラムに入れたことは評価したい。

 最後のブラームスは4番である。
 ブラームスの交響曲を演奏するなら無難な選択である。1番だと作曲家の気合いが入りすぎていて重いし、2番は逆に曲想がのどかすぎて解釈の差が大きく出てしまう。3番か4番という選択肢で3番を選ぶ指揮者は先ずおらず、(3番を選ぶくらいなら全曲チクルスないしは全曲演奏というケースが多い)必然的に4番という指揮者は結構多い。(4番しか残していない指揮者もいる)
 この演奏はモーツアルトよりだいぶ良い。だが・・・かといってベルリンフィルのベストかと問われるとそうは思えない。一回聴いたくらいで判断するのは尚早に過ぎるので、まだペトレンコの指揮を評価する積もりはないが、あまり景色の大きい音楽を作り出す指揮者には聞こえなかった。これは指揮者の最近の一般的な傾向で、昔は指揮者の解釈に団員がついていく、というトップダウン的な関係が多かったような気がするが、最近はオーケストラの楽団員と協調路線を取とうとする指揮者が増えた。
 結果として演奏のスケールは小さめになることは避け得ない。そもそもオーケストラと指揮者の原点を考えれば、専門的な指揮者など最初はいなかったわけでそう言う意味では「マエストロ」の存在が必須というわけではない。ウィーンフィルとかベルリンフィルとかであれば、現実的に指揮者がいなくても演奏は成立するだろう。優秀な楽団ほど『面倒で偉そうな指揮者』を忌避する可能性はある。
 しかしそれが楽団にとって良いのか、そうでもないのかよく考えた方が良い。様々な管弦楽の演奏を聴いている中で時折思うのは、常任指揮者以外の演奏が特別にinspiringな演奏になる事が多いということで、優れた音楽家同士がぶつかることでオーケストラの質が格段に良くなるという事象が散見されることだ。ケルテスやバルビローリのウィーンフィル、同じバルビローリやセルによるベルリンフィル、カラヤンとフィルハーモニアなどはその例だろう。
 今のシステムや指揮者の選択方法で、そうした力量のある指揮者が生れていくのか良く分らない。ペトレンコやらティーレマンの演奏を聴いている限りでは、彼らが大指揮者になるのかも、またその演奏が長く愛される物になり得るのか、今の段階ではあまり肯定的には思えない。
 だとしてもそれは結果的にベルリンフィルやウィーンフィルの経済的、あるいは社会的評価の問題に帰結するので、いずれはっきりするのであろう。
 日曜日のNHKは色々考えさせてくれる。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する