年が改まっても、めでたさを感じなくなったのは恐らく老いたからである。若い頃は新年がやってくるたび、何か新しい未来が開けるような気分がしたのだが、素晴らしい未来はなかなかやってこなかった。
犬だって、媚びを売っても餌を呉れない人間には見向きもしなくなる。新しい年だからといって格別のめでたさを感じなくなってきたのには、残念ながらそうした経験を積み重ねてきたからに違いあるまい。
とはいっても、僕は年を食った「大人」なので年が明けると、例年通り初詣にでかけることにした。
いや・・・これはお医者さんにいったり薬を貰ったりするのと同じで、効果があるのかは分らないのだが、行かないと悪いことが起きそうで医者に行き続けたり薬を飲み続けたりするのと同じ理由で惰性がそうさせているのであろう。凡人はそうしたつまらぬ経験則に縛られて生きている。
うーん、正月から愚痴めいた話になってしまった。
気を取り直そう。年に一回の事である。難しいことは言わずにまず、元日は例年通り明治神宮にでかけることにする。行く時間は毎年朝の七時頃で、この時間がどの神社も最も空いている。年が明けたばかりはもの凄く混むし、元日も十時を過ぎると混み始めるのだが、ちょうどこの時間はみんな家に居たい時間らしい。今年も空いていて、待つことなしに新年のお参りが出来た。
二日は山王日枝神社に出向く。昔はラグビーの大学選手権の準決勝を見に国立競技場へ行ったり、あるいは箱根駅伝を見たりで、例年二日ではなく三日の午後に行っていたのだが、午後は三が日の内はやはり混む。夕方、日が暮れそうなのに山門の外で待ち続けているのは心細いだけでなくなんとなくめでたくなさそうに思えてくる。
今年は二日の七時に行ったらやはり空いていた。結構なことだ。
山王日枝神社では例年、干支の土人形を買っていたのだが。たまたま去年三日に用事があって四日に行ったら、もう売っていなかった。ちょっと残念だったので二日に行った今年は辰の鈴を買った。(以前はこれを買って実家と自分の家に置いていたの。神様のお裾分けであることも引き摺って、なかなか処分できずにおいたら十二支が二回り近くしてしまったので、去年の正月、もう一度神社を訪れ、纏めて神社に収めさせて頂いたので今年は棚に一つあるだけで、ずいぶんとすっきりとしている)
新年・・・・。結局、毎年めでたさが少しずつ減じるだけで年が改まる毎にやることはさして変わらない。誰も皆同じような物であろう。
一方、年末は紅白歌合戦にベートーベンの第九というのが決まり事であったが、こちらの方は「紅白」の方も第九のほうもだいぶ揺らいでいるようだ。
最近「紅白」は凋落を囃し立てる事の方が年末の恒例行事になっており、素人が凋落の原因を自慢げに分析するという意味のない行為が流行っているようだ。しかしそもそも「歌の力の減少」「歌の聴き手の対象の分散」「歌以外の娯楽の長期的な台頭」「歌を含めた娯楽が様々な機器(テレビ以外)によって提供される技術の発展」などが重なって作用しているだけのことで、その状況は「紅白」よりも「歌謡大賞」や「レコード大賞」に更に強烈に出ているし(ただ「大賞」たちはそれよりも、審査の恣意性の方が大きな問題になっているようだ)そもそも批判している素人が「止めた方が良い」などと言いつつ、その文章を読む限りかなり熱心に「見ている」らしい事の方が笑える。馬鹿げた事だ。NHKはこんな馬鹿げた意見を聞く必要は1ミリもない。好きなだけやって好きな人が見る、それで何も問題はない。好きな人が盛り上げていけば良いのでそれは「祭り」と同じ事である。「祭り」をしたり顔で批判するような無粋な事は余計な世話である。
もう一方の「第九」については今年も「紅白」の裏番組でやっていたが、世間的に年末は何でも「第九」とか「素人が第九の合唱に参加する企画」とかはCovit19以降、下火になったように思う。
年末に「第九」を聴くのはクラッシック音楽の愛好者が減っている現状、良い習慣だと思うが、僕自身は鼻につく感じがして暫く敬遠していた。しかし世間が落ち着いた今回の年末(昨年末)はCDで計4回聴いた。別にミサソレムニスでも「英雄」や「皇帝」でも構わないのだが、久しぶりに聞くと年末に「第九」という組み合わせは案外悪くないものである。なんとなく迫り来る年の瀬と、終盤に盛り上がる曲想がぴったりと合うのだ。
第九のCDは10枚程度持っているのだけど、今回聴いたのはアンドレ クリュイタンスとベルリンフィル、オイゲン ヨッフムとロンドン交響楽団の組み合わせ、それにフルトヴェングラーがバイロイトを振ったのを2回という内訳である。クリュイタンスとヨッフムは日本でさほど評価されている盤だとは思わぬけれど、音楽的にはどちらも優れた演奏である。とりわけて第九に過度の陶酔を求めない聴き手にはどちらもお勧めの演奏である。
フルトヴェングラーのものはライブ録音という形式も手伝ってか、とにかく終盤にやたら盛り上がり、テンポも良い具合に速くなって陶酔感に浸れるという意味ではこれに勝る演奏はなかなかないだろう。これが究極の名盤か?と問われるとそうではないような気はするが、こう言う演奏に中毒するのも分らないでもない。ただ・・・ちょっと危険な匂いがするのはフルトヴェングラーの向こうにナチスの「熱狂」が垣間見えるからかも知れぬ。
それはともかく一応個人の意見として言っておくが、誰にでも通用する究極の名盤などというものは現実にはほぼほぼ存在しない。それどころか、個人として聞いていても気分次第で好みは変わるというのが真実である。えっへん。
とはいえ、今回に関しては4回ともたいへんいいものを聞かせて頂いた気がして、良い年の瀬であった。
来年はどうしましょうか。マズアとかスィットナーとかコリン ディビスとか渋めの選択肢もまだ残っている。トスカニーニもあるし・・・。クレンペラーも控えている。その他にベルリンフィルとの共演にはフルトヴェングラーとカラヤンの二大巨匠のレコードもある。うん、一年かけて慎重に選びましょう。
その新しい一年、今年は小説を二本書き上げたい。プロットは既にできあがっているのだが、病をしてからというものの(禁煙をしたことも重なって)集中力がなかなか戻ってこないために思った通りに筆が進まない。
そうしたこともあって一昨年来の書きかけ二本はそのまま残ってしまってウェブ上に放置したままである。その二本はもしかしたらもう書き上げられないかも知れないが、新しい方の二本は薔薇の新しいシュートのように大切に育てたい物である。そのためにという訳でもないが、今年の本願は「本望達成」、今年の漢字は「辰」ならぬ「達」とした。
年末は望みを達成した上で第九を聴きたいと切に願っている。