拙作『曲藝團〜』が最終局面に差し掛かったところで、トップの粗筋欄を若干手直し致しました。自分ではネタバレを含んでいるように思えたのですが、今となっては考え過ぎだったような気もします。
追加した詩人・高橋睦郎さんの『畸型の舟』を関係各位の了解を経ずに、全文書き起こして紹介します。詩文の末尾に難読と思われる漢字のルビを底本に従って記して起きます。では。
『畸型の舟』
一
その舟には 舳もなければ 艫もない
舟梁もない 舟底もない 舷もない
前も 後も 上下 左右もない その舟が
櫓なく 櫂なく 帆柱も 帆布もなく
膨らむ夜の上げ潮に乗って まっしぐら
愛の時に似た 贋の愛の時の きみの孤独な寝台へ
大きく拡げた きみの青ざめた脚の入江
大きく開いた きみの痙攣する股の河口
なまぐさい なまあたたかい きみの記憶の胎内へ
だが 流れ漂うきみの寝台にも きみの肉体にも
頭もない 尻もない 背中も 腹もない
だから きみの寝台を 胎内を求めるその舟にも
目もない 耳もない 腸も 筋 骨もない
うつわ うつほ まなしかたま ひるこ!
二
私は言葉をもっては語れない者
かりに比喩として私を語るなら
男にして女 女にして男
夫にして妻 妻にして夫
母にして息子 息子にして母
陰嚢の間にその盲愛を孕む
父にして娘 娘にして父
乳腺の迂路にその邪恋を匿す
姉にして弟 弟にして姉
脳葉の密室にその苦悩を抱く
兄にして妹 妹にして兄
子宮の森にその断念を閉じこめる
眼球に他者を 骨髄に死者を
際限もなく増殖する
私の頭は二つ 三つ 五つ 十……無数
私の心臓は 十 五十 百 千……無数
私の手足は 千 五千 一万 百万……無数
私の舟は多頭 同時に無数の方向を
無数の潮流のはての 無数の月の出を目指す
言葉を忌避する前に 私を忌避せよ
言葉は髭と女陰とを 私は乳房と男根とを
同時に 無数に 備えている
三
異なるかな 偉なるかな
海は潮沫に満ち 潮沫は舟影に満つ
あらゆる色の潮 あらゆる形の舟
舟はいのちに満ち いな 舟こそはいのち
いのちは舟と化り いのちの舟は陸を目指す
陸は満満たる月の光 いな 陸こそが満満たる月
月の陸さして 陸の月さして 舟参差 いのち参差
千 万 億の時かけて 舟陸上り いのちの月詣で
舟はやがて陸に いのちはついに月に
夢魔の 夢精の 夢の現つ 現つの夢
きみの 目覚めの波打ちぎわへ 今朝
怪なるかな 魁なるかな
<ルビ一覧>
舳=みよし 艫=とも 舟梁=ふなばり 舷=ふなべり 腸=はらわた
潮沫=しおなわ 化り=なり 陸=くが 参差=しんし
<底本>
ベヨルト工房『夜想十号 特集/怪物・畸型』(一九八三年刊)
【解釈と鑑賞】
形を失った舟とは、精子なのです。そう解釈しました。一連の「きみ」を女性とすれば、移動の過程からもそう判断したくなりますし、二連の誰でもあって誰でもないという表現のリピートや無数というキーワードからも類推できます。
更に三連の「潮沫は舟影に満つ」が決定的で、海にある「潮沫」は卵子なのです。理解したような気になって、うんうんと頷くのです。
二連の冒頭で「誰でもあって誰でもない存在」を「私」とも言い表しています。「舟」と「私」が一致してしまいますが、その「私」の前には「かりに比喩として」という意図的な重複表現が見られ、これは「同じではない」と強調するものに違いありません。整合性は取れます。
三連の「舟こそはいのち」も精子説を援護します。
しかし、ラスト近くで「無精」という単語が登場します。にわかに精子説は半壊です。詩人がここで解答を明記することは恐らくありません。仕掛けは単純ではなく、詩人自ら「誤読しなように」と呼び掛けて、優しくフォローしているように思えます。どうも一筋縄ではいきません。
一方、「畸型」の解釈はストレートで、明快です。「可能性」を意味しています。
一連の最後を漢字表記にすると「器 空洞 無目堅間 蛭子!」
無目堅間(まなしかたま)は記紀に登場する竹を密に編んだものに獣を革を張った神代の舟です。ひるこ(水蛭子・蛭子命)も記紀由来のやんごとないフリークス。この一連の最後の文が、詩の締め括りと重なります。
「怪なるかな 魁なるかな」
「魁」は「かい」と読ませますが、文字通り、先行者や頭領といった好意的で高い評価が付加されています。「ひるこ=さきがけ」です。
蛭子命は外見に障りのある御子で、遠い島に流されてしまいます。ここまでは各地の神話に類型があると言われますが、蛭子命は後に信仰の対象となります。現存する神話では唯一の例で、風変わりな貴種流離譚とも言えます。これが「可能性」です。
そして詩のラストに至った所で、最後の重要な一文が三連冒頭の「異なるかな 偉なるかな」と対になっていることに気付きます。異形=偉大なのです。技巧的で、複雑な構造に見えますが、詩に籠められたメッセージは明瞭と言えましょう。
大前提として高橋睦郎さんが「畸型」に負のイメージを織り込むような野暮なことは致しませんし、作者(蝶番)も同じような高みを目指してチャレンジしました。
この知られざる『畸型の舟』を巻頭の六頁に掲載した昭和デカダンス期のサブカル誌も同じ志と想像します。フリークスの各種写真よりも強いインパクトを受けました。
因みに、映画『フリークス』にあった「誰が本当の畸型なのか?」といったテーマは、本作の最後のほうで軽く覆します。
『曲藝團〜』は全十四章の構成で、そろそろ終わりなのです。最後までお付き合い頂けましたら、とっても嬉しいのです(副島談←もう出番はない)
▽掲載された高尚なサブカル系文藝誌(撮影:福助)