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傑作文學百選を更新しました。

 こんにちは。
 九頭龍一鬼です。
『九頭龍一鬼(誰)はかく語りき』のなかの「人生で血となり肉となった百冊の文學たち(コメント付き)」を更新しました。輓近も四冊の傑作を追加しておいたのですが、今回、さらに三冊を追加しました。
 あらたにえらばれた、栄光ある(のか?)傑作群は以下のとおりです。コメントは当該ページにて御覧ください。

『ア・ルース・ボーイ』(佐伯一麦)

『成功学キャラ教授 4000万円トクする話』(清涼院流水)

『卒業』(重松清)

『藻屑蟹』(赤松利市)

『少年アリス』(長野まゆみ)

『ロリータ』(ナボコフ)

『聖アントワヌの誘惑』(フローベール)

9件のコメント

  • 九頭龍一鬼樣

    こんにちは、工藤行人です。
    近況ノートのスペースをお借りして、このような形で初めてご挨拶申し上げますことお許し下さい。

    これまでにも拙文にご興味をお持ち下さり、昨年末には「豊穣なる語彙世界」に過分なるレビューを頂戴しておりながら、ご挨拶とお礼を申し上げる機を逸してしまい後悔しておりました。先日、「春の終わり」にもまた☆と応援を賜りましたのを縁として、遅ればせ乍ら今度こそは、と思いましてお邪魔しております。

    「豊穣―」に頂戴したレビューは、九頭龍さんの文学のご経験とご教養とに裏打ちされた含蓄と示唆に富む、私にとって本当に有り難いものでした。児戯の如く気紛れに書き散らしていた拙文に、著者たる私自身の思いも寄らなかった「意味づけ」を施して下さった許りか、「百度のエクリチュール」という何とも魅惑的な名指しで拙文を文体としても見出して下さったことに、「君のやっていることには、実はこういう意味があるんだよ」と、少年時代に先生から御教示を賜った時のような、何とも言えない懐かしい面映ゆさを覚えずにはいられませんでした。嬉しかったです。

    それとともに、私として、別の読者の方から頂戴したコメントへの返信に「豊穣―は知的操作で書いた散文」であるなどと嘯いておき乍ら、その実、操作していると思い込んでいた著者当人が全く操作できていなかったことに気付いた時の恥ずかしさと痛快さ、そして、もしやこれが「作者の死」か、と身を以て体験できたことへグルーヴなど、九頭龍さんには沢山の贈り物を頂戴したと思っております。本当に本当に有り難うございました。

    私自身、勤勉な書き手ではなく、多分に時間の有無や気持ちの如何など、気紛れに左右される気質ではありますが、九頭龍さんが一段上手の「切り取り」方をして下さった「意味」を考え乍ら、働きかけを受け止めつつ行う働きかけとして、今後も細々と書いていく所存ですので、願わくは先生のように見守って下さいましたら幸甚です。
  •  こんにちは。九頭龍一鬼です。
    『(前略)少年時代に先生から御教示を賜った時のような、何とも言えない懐かしい面映ゆさを覚えずにはいられませんでした。』とのことですが、愚生にとっては、工藤行人さんこそ、文章作法の先生と鑽仰するにふさわしい御方ですので、こちらこそ面映ゆい気持ちがいたします。
     余計な自分語りだと存じ上げますが、中卒ゆえに現代文の教鞭をとられる機会のなかった愚生は、十代後半で泉鏡花や中島敦の諸作と邂逅してから、『絢爛豪華な文軆』を追窮することこそが愚生の使命だとかんがえて執筆してまいりました。実際に、二十一歳で泉鏡花のエピゴーネンのような中篇を文學界新人賞に応募したところ、はじめての文藝誌への応募ながらも予選通過し、慢心してしまいました。爾来、『絢爛豪華な文軆』を冀求しながら、失敗もあり、成功もあり、『もっと頑張ろう』とおもっていた爾時に出逢ったのが工藤行人様の作品群でありました。『ああそうか、おれは井の中の蛙にすぎず、穹窿は此処までふかかったのか』とうちのめされた次第でございます。(同時に、尾川喜三太様に指摘されたように、愚生の日本語の誤謬のおおさにも気付かされました)
     饒談ではなく、工藤様の作品群との出逢いにより、愚生は躬自らの限界を痛感いたしました。嚮後、大谷崎、三島、丸谷、各氏の『文章読本』を再読したうえに、海外の編集者による文章作法本も読了し、『無限の方向へむかえば工藤行人様には到底およばないので、有限の方向へむかうことにしよう』と愚考するにいたりました。『極限まで豊饒な文軆ではなく、愚生は、極限まで節約した文軆をめざそう』という結論に逢着したのです。無論、愚生の理想とする文軆は工藤行人様の作品のようなものであったのですが、それは、すでに工藤様が実現された偉業です。愚生は愚生なりの道程を羈旅しようと方角をかえたのです。
     斯様な次第で、愚生は現在、鍛錬のために、過去の愚作の徹底した推敲に臥薪嘗胆しております。『極限まで節約した文軆をめざそう』という方針は標榜したものの、『いままでたくわえた語彙は無駄にはしたくない』という二律背反になやまされています。これからも、自分の文軆を獲得するために精進したいとおもっている次第です。愚生は工藤様の文章と出逢えたことにより、自分自身の文軆を再考する機会にめぐまれて僥倖でございます。
     それにしても、曩時より不思議だったのですが、工藤行人様はプロの小説家をめざしていらっしゃらないのでしょうか。工藤様の作品群は(文軆は無論、物語レベルでの教養のふかさにおいても)充分にプロのレベルを凌駕しており、輓近の芥川賞受賞作レベルならば、飄然とのりこえているようにおもわれるからです。実際に、文學賞に応募していながら、受賞していらっしゃらないのであれば、失礼でもうしわけございません。ですが、工藤文學が新人賞を受賞できないのならば、また、不思議なことだと存じ上げます。
     斯様な御時世です。工藤様の御健康をおいのりいたします。
     今後ともよろしくおねがいいたします。
  • 九頭龍様

    こんばんは。工藤行人です。
    書きたいことが多岐に亘ってしまい、何とか約めているうちにお返事が遅くなってしまいました。以下、些か長文となりますがご容赦願います。

    まず、気をつけていたはずなのですが、先だっての書き込みの中に脱字や表記の揺れを見付けてしまいまして……力んでしまうと度々こうなってしまいます。何とも失礼致しました。そのような私が「文章作法の先生」とは畏れ多いことで、仮に先生になれるとすれば、それは反面教師としてであること明らかです。が、ともあれ、「面映ゆい」「面映ゆい」とお互いに恥ずかしがっていても仕方がありませんね……願わくは、ざっくばらんなご交誼をお願いしたく存じます。

    さて、九頭龍さんがこれまで文学にどのように向き合ってこられたのか、エッセイ集の100質とも併せて興味深く拝読しました。中島敦は高校現代文の定番ですが、十代で鏡花とは畏れ入りました。早熟でいらしたのですね。その年頃の私は、歴史好きの祖父の影響を受けて司馬遼太郎や津本陽、永井路子といった諸氏の作品を一通り読んだ後、全く畑違いの『ノルウェイの森』に辿り着いて衝撃を受けておりました……。

    2ヶ月ほど前に田山花袋の「美文作法」を再読する機会がありまして、曰く花袋自身も駆け出しの頃は絢爛豪華な美文に魅せられて随分と書いたのだそうですが、私なども、「絢爛豪華な文軆」には文学に目覚めた方ならば一度は憧れるのではないかと思っておりますし、そういった憧れを抱いている方が書かれた作品は言わずもがな、過去に抱いていた方の作品にあっても、これはいくら消そうとしても痕跡が滲み出てしまう……芸術的な「文軆」にはそれくらい強い希求性があるのだと信じております。この「憧れ」の関門を通るか否かは作品に大きく作用するのだろうと、あくまで読み手としてですが考えておりまして、その意味で、現今の小説家の中にこの関門を通らず、プロとなって脂が乗ってきた頃に美文や古典に回帰するという方が少なからずおられるのは、現代文学の情況を考える上で大変興味深い現象だと認識しております。いずれにしましても「以前」か「以後」かという違いこそあれ、やはり「絢爛豪華な文軆」には一定度の希求性があること疑いないようですから、私も先賢の遺した文学的豊穣の恩沢に浴し乍らこれを真似し、学びつつ、語彙の枯れるまで(と言いつつ、結局のところ飽きるまで……)書いてみたいと考えております。

    拙文が九頭龍さんのご創作に及ぼしたとされる影響については全くに意想外でしたので、いま直ちに総てを受け止め切れてはおらず、何とも言えぬ複雑な感慨を抱いております。私に「文体」があるのだとすれば、それは九頭龍さんに見出して頂いたからこそのもので、私自身が己の「文体」なるものをそれとして認識できているかはかなり危ういのです。ただ、拙文をお目に掛けることで生ずる何らかの影響が確実にあるらしいことだけは肝に銘じておきたいと存じます。とはいえ、此方から「このように影響されて下さい」とお願いするわけにも行きませんし、私があれこれ申し上げるのも野暮というものですから、九頭龍さんのお考え、尊重すべきなのでしょう。その上で、いま目指しておられるという「極限まで節約した文軆」、豊かなる語彙を操る九頭龍さんなればこそ、それらを「節約」するのはお苦しいであろうと拝察しますが、もしかすると、そうやって後ろ髪を引かれ乍らも「節約」を標榜してお作りになる新しい文体、これを苦闘の末に獲得なさった時、傷ついて破れた衣の下に顔を見せる洗練された言葉の肉体は、卑俗な表現になりますが「チラリズム」のように非常に蠱惑的なものになるのではないかと、可笑しな言い回しになりますが、自分のことでもないのに妙に胸がざわつきます。そして蛇足乍ら、そういう「お姿」を拝見できるのならば、個人的にはできれば女性の方がより好もしいのですが(こら)、ご時世、性差を超越した美というものもありましょう。

    九頭龍さんのキャリアには及ぶべくもないのですが、拙文をネット上で不特定多数の方々にお目に掛けるようになって、間もなく6年になります(若干の加筆修正を施してはおりますが、実は「春の終わり」はその初めての散文でした)。この間、文学賞などの公募に応じたことはありませんで、ただただ、趣味嗜好の似通った同好の諸兄姉を求めて彼彼女らとささやかな愉悦の空間を共有し、あるいは全く思いも寄らない「Meraviglia!!(すごい!!)」を与えてくれる作品にあわよくば出逢いたいと、カクヨムはじめネット上を徘徊しておりました。今はそれだけで満ち足りてもおりまして、そのことは日常生活や仕事はもとより、思考の整理などにも好影響を齎してくれていると感じております。逆に商業作家の方向に進んでしまうと、私の楽園(笑)が崩壊してしまうと思うのです。いわゆる「好きなこと、趣味は仕事にするな」というある種の箴言に従っているのかも知れません。その点では、文学は私にとって目的ではなく手段としての位置付けにあって、実はそのことが、文学を目的として日々研鑽を積んでおられる方々を前にした時の後目痛さを私の中に誘発しもするのですが……。

    いずれにもせよ、他でもない私に「Meraviglia!!(すごい!!)」と思わせてくれる、結局のところ「感動」を与えてくれるのならば、プロ・アマの別や商業誌・ネットの如何はさほど大きな問題ではないのだろうと思います。お金を払って損をした気分になることもありますし……。年を重ねるにつれ、純粋な「好き嫌い」だけで物事を判断することが難しくなる中で、それでもまだそういった「好き嫌い」だけで評価しても差し当たって問題は無さそうなところも文学の魅力のように思っております。要するに私は只の我が侭で、子どもなのでしょう。それが罷り通る季節は疾うの昔に後景に退いているにもかかわらず……同じく「工藤」ではあるものの、私は「見た目はオトナ、頭脳は子ども」のままで、某推理漫画の主人公とはアベコベだなと常日頃から自嘲しているところです。

    世情騒然としておりますが、ニュートンの言う「創造的休暇」の時節であると諦念して、ここぞと許りに蟄居してカクヨムでの「書く読む」に暫くは勤しんで参ろうと考えております。

    九頭龍さんもお体、お心健やかにお過ごし下さいますよう。
  • ああ、また文字揺れ、表記揺れ……ご容赦下さい!
  •  こんにちは。九頭龍一鬼です。
    『2ヶ月ほど前に田山花袋の「美文作法」を再読する機会がありまして、曰く花袋自身も駆け出しの頃は絢爛豪華な美文に魅せられて随分と書いたのだそうですが、(後略)』とのことですが、花袋も、曩時は美文をもちいていたとは、饒談ではなく、衝撃的なくらいに意外でした。田山花袋は、坪内逍遙や二葉亭四迷らによる写実主義から芽生えた、自然主義の文脈よりデビューした作家というイメージがあったからです。ですが、博覧強記Wikipedia先生によると、スタート地点では尾崎紅葉に師事なさっていたのですね。『金色夜叉』が一八九八年、「蒲団」が一九〇七年発表となれば、まさに維新からはじまる激動の明治時代の前期・後期をそれぞれに代表する作品群のようにおもわれます。日本の文明の急激な近代化による、日本人の自我同一性の激変にせまられた時代だったのではないでしょうか。斯様な視座から俯瞰すれば、「蒲団」における人間描写の複雑性に、『金色夜叉』のような藝術至上主義的な美文は相応しくなかったのかもしれません。

     愚生としては、柄谷行人の指摘するように『明治維新前後に、インテリゲンチャとしての武士階級が没落したために、日本人全軆の心理は豹変した』とおもいます。ですが、江戸時代以前の日本人の心理がさほど単純だったかは確信がもてません。森鴎外は「阿部一族」で、あきらかに近現代人とは相違する、維新以前の日本人の心理をえがいていますが、それはそれで、複雑怪奇なものだからです。

     谷崎は『美文では、現代文明の複雑さに耐えられないので、必要にせまられて、現代文は実用的な文軆になっていった』というようなことを仰有っていたはずです。また、村上春樹も同様で、『自分のえがきたい物語はあまりにも複雑なので、反比例して、文軆は小回りのきくものにしなければいけなかった』などというように仰有っていたと記憶しております。

     此処まで書いておいてなんですが、愚生のかんがえる『極限まで節約した文軆』というのは、前述の『実用的な文軆』や『小回りのきく文軆』とは相違するものです。愚生は元来、滅多矢鱈に豪奢な形容動詞をちりばめ、奢侈な譬喩で装飾した文軆を愛用しておりました。形容動詞や直喩は、上手い下手はともかく、執筆姿勢によっては、無尽蔵に濫用できます。其処から、形容動詞や譬喩を基本的に『一切つかわない』文軆へと方向転換したのです。愚生は元来、『文章は計算式で書ける』とおもっており、いままで『形容動詞+主語+形容動詞+目的語+述語』というように『計算』していたところならば、『主語+目的語+述語』という最小単位まで節約した文軆で物語を執筆できないかとおもったのです。形容詞の部分は、読者諸賢の御想像にゆだねるということです。

     日本語は語彙にとぼしいといわれますが、形容動詞は百花繚乱で、愚生はこれを華としておりました。といえども、形容動詞をつかわなくても、明治維新後、日本語には沢山の語彙が輸入されました。動詞ならば、『たたずむ』と書くところを、『佇立する』と書いても『彳亍する』と書いてもよいわけです。なので、愚生のいままでの文軆が無駄になるわけではありません。文脈によっては、漁撈してきた形容動詞群が必要になることもあるでしょう。 

    『(前略)拙文をネット上で不特定多数の方々にお目に掛けるようになって、間もなく6年になります(若干の加筆修正を施してはおりますが、実は「春の終わり」はその初めての散文でした)。この間、文学賞などの公募に応じたことはありませんで、ただただ、趣味嗜好の似通った同好の諸兄姉を求めて彼彼女らとささやかな愉悦の空間を共有し、(後略)』とのことですが、喫驚いたしました。これだけの書き手が文学賞に応募していないということは、文藝誌側からみれば、『趣味で書いている作家のほうがプロよりもすごい』という屈辱を味わわされざるをえないことになるでしょう。愚生は、然様な工藤様の執筆姿勢に、憧憬せざるをえません。プロ志望になると、新人賞で落選したときの苦悩を何度も甘受せねばなりません。それは、途方もない失望感です。工藤様がプロになられないのは残念ですが、たしかに、工藤様の作風が、商業主義の世界で穢されるのを想像すると、なるほど、工藤様の御選択は怜悧なものであるとおもわれます。
     愚生の不躾な質問にお答えいただき、まことにありがとうございます。
     今後とも、よろしくおねがいいたします。
  • こんにちは、工藤行人です。先日も拙文をご笑覧下さり、☆も頂戴しまして有り難うございます。

    さて、私も九頭龍さんと同じく、花袋の「美文作法」を初めて読んだ時、おや、と不思議に思ったものですが、どうやら世に出ることのない習作としてだったのでしょう、「花袋の美文」がご本人曰くあったらしいのです。ただ、ご案内の通り結局は花袋自身、「今の(※この「今の」とあるところの意味は見逃されるべきではないのでしょう)美文といふものは、もう駄目であると私は信じて疑はぬ」として、美文に限界を見出し、そこから離れていくことになるわけですが……。その、花袋の見た「今の」、乃ち明治期の美文の限界は、柄谷行人氏の仰る「武士階級の没落」による「日本人全軆の真理の豹変」とほぼ同期して、「舶来品」として輸入された「近代」を特徴付ける「個人」や「自我」の影響の中で認識され、言文一致の機運の昂揚によって決定的になったということなのでしょうか。前近代においては、支配階級とほぼ同義である知識階級だけが、ある意味で「表現」を独占しうる情況が続いたものの、「近代」が気付かせてくれた、非支配階級の「個人」「自我」とそのリアルは、当然にもかつて支配階級が用いた「乏しい」語彙では、到底表現しきれない内実を孕んでいたということなのでしょう。些か誇張的になりますが、タイムラグを生じながらも日本人全員が近代人として「自我」を持ったことで、そこから派生する諸関係、世界の認識の仕方は「複雑」にならざるを得なかったのでしょうし、その「複雑」さのリアルを切り取る文体として「実用的な」「小回りのきく」文体が現代においてますます希求されていくであろうこと、確かに納得しやすいように思われます。

    九頭龍さんの仰る「極限まで節約した文軆」というのは、そういった時代に要請された文体という意味でのそれではなく、拝読したところを私なりの言葉に置き換えて解釈させて戴くと、畢竟するところ形容詞や形容動詞といった「修飾語」や、対象「そのもの」ではあり得ない譬喩のような「贅肉」を徹底的に排除した文体ということですね。「文章は計算式で書ける」というご認識、恐らく文章を句や品詞単位に腑分けする、チョムスキーの素朴構成素分析の手法と少なからず通ずるものとお見受け致しますが、そういったご認識のもと、言わば「贅肉」を削ぎ落とす「引き算」によって、それでもなお残る最小限の文章によって体現される文体、ということなのでしょう。

    なるほど、尾川喜三太さんが夙に仰っていたように、形容詞・形容動詞という品詞には幾ら濫費しても尽きることのない量的な豊かさがある一方で、質的には、言葉として対象を切り取る際の曖昧さが常に付きまとい、動もすると文章の骨格に直接触れることを妨げる、そういう負の方向に作用することさえありましょう。例えば「眼前に、女神のような、この世の者とは思えぬ、見たこともない美人立っていた」という文があったとして、しかしこの「女神のような」「この世の者とは思えぬ」「見たこともない」などという形容表現は、対象を「描写」として何ら有意に切り取ってはおらず、読者各人の裡に髣髴する多様なイメージによって補完されざるを得ない宿命にあります。であるならば、「兵隊の無駄遣い」に等しい無意味な形容表現をいっそ悉く排除して、単に「眼前に美人が立っていた」でも事足りるであろう、という、そういうことを九頭龍さんも尾川さんも仰りたいのだろうと推察しております。確かに形容表現があろうとなかろうと、まず以て「美人」なる名詞にしてからが、読者各人の中で千姿万態に現れるのでしょうし……。

    その意味からも「形容詞の部分は、読者諸賢の御想像にゆだねる」というご態度は大変に潔いと思うのです。故何となれば、それこそ読者の「力量」への信頼の表明でもあるからです。趣味だ、余技だ、などと言い訳しながらも「書き手」の側にいざ私自身が立った時、ふと頭を擡げてきたことの一つに、これも当然といえば当然なのですが「拙文は読者に如何に読まれるのか」というものがありました。「書き手」の力量というものはその創作物によって概ね窺い知ることできましょうが、「読み手」の力量を測ることはなかなか難しいということに、書き始めて、初めて思い至ったのです。結局のところ私自身は、不遜にも予め具体的な読者の存在を考えないようにして、自分が書きたいことだけを「如何!」という思いで、甚だしい形容表現の濫費を伴って書き散らす方向に進んでしまっていると思うのですが、とはいえ、そんな拙文に対してご興味をお持ち下さる九頭龍さんはじめ、少なからぬ読者の方々がいらっしゃって、のみかレビューを下さり、著者たる私自身も気付かなんだご指摘や意味づけをして下さる。その事実に、最近では流石の私も影響されない訳には行かなくなっておりますから、今後そのことが拙文に如何なる変化を齎すのか、あるいは齎さないのか、今から楽しみにしているところです。
  •  こんにちは。九頭龍一鬼です。
    『文学賞のこと、以下でちょっと毒を吐いておりますので、不適切だと思われましたらコメントごと削除して下さい。』以下の一文についてコメントさせていただきます。『完全に同意します! 我々、ワナビーの意見を代弁していただき、まことにありがとうございます!』としかもうしあげられません。カクヨム運営側はどうなさるかわかりませんが、愚生は削除などいたしません(一読して、須臾もなくダウンロードさせていただきました)。むしろ、工藤様には、この投稿文を一作品、一評論にして、随筆部門などでアップロードしていただくことを希求いたします。愚生のページのようなカクヨム内の僻陬にのこされているだけでは、あまりにも勿体ないです。工藤様が仰有れば、説得力があるでしょうから、もっと、大勢の読者にとどけるべきだとおもいます。『ヘーゲルの全著作を読破するよりも、一葉の手紙を執筆するほうが創造的である』というようにいったのはシオランだったとおもいますが、これに類似した出版業界の倒錯状態を、工藤様は見事に描破されていらっしゃると存じ上げます。愚生も、『どんな傑作を品隲した読み手よりも、とんでもない駄作を執筆した書き手のほうが偉大である』とおもいますので、カクヨム内でも、不器用ながら、一所懸命に作品を執筆している作家様の作品には、積極的に星をさしあげるようにしております。愚生も、斯様な微衷をネットで披瀝して、現文壇システムにおいて、プロへの門扉がとざされたとしても拘泥しないくらいに、工藤様の御意見を尊重いたしたいとおもいます。
     現在の文學の状況を怵惕惻隠して。
     今後ともよろしくおねがいいたします。
  • 九頭龍さん、お返事が遅くなってしまいまして恐縮です。工藤行人です。

    先だってのコメントですが、ダウンロードまでして下さったとの有り難いお言葉を頂戴しておりますので、当方にて削除させて戴きました。
    つらつら惟まして、やはり作家志望の方の近況ノートのコメント欄に書くべき内容ではなく、仰るように、私がエッセイなどの形で自身のスペースにて展開すべきものであったと判断致しました。

    認識を共有して下さったことに感謝を申し上げつつ、「暴走モード」にならないよう自身を律して、またお邪魔させていただけたらと存じます。随分と都合の良い物言いになってしまいますが、今後とも宜しくご交誼の程をお願い申し上げます。
  •  こんにちは。九頭龍一鬼です。
    『先だってのコメントですが、ダウンロードまでして下さったとの有り難いお言葉を頂戴しておりますので、当方にて削除させて戴きました。』とのことですが、僭越ながら、個人的には、すこしでもおおくのアマチュア作家に閲覧してもらいたかったので、残念です。無論、工藤様の文章なので、工藤様の御判断を支持いたします。
     こちらこそ、今後ともよろしくおねがいいたします。
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