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1000PV感謝と小説整理のおしらせ

 こんにちは。九頭龍一鬼です。
 だいぶおくれましたが、『2週間で小説を書く!』~実践練習体験集が1000PVをこえて、1500PVに到達するいきおいですので、まことにありがとうございます。また、『らららかがくのこ~多元宇宙間戦争』第五回星新一賞最終候補作も500PVをこえましたので、感謝いたします。

 以前より、小説一頁ごとの字数を整理したいとおもっていました。なかんずく、『TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN』群像新人文学賞二次予選通過作品にいたっては、一頁7000字をこえていたので、非常に読みにくかったとおもいます。それでも読んでくださったかたがたにはまことに感謝いたします。
 其処で、今回、『らららかがくのこ~多元宇宙間戦争』第五回星新一賞最終候補作、『失われた人類を求めて』短篇二篇、『TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN』群像新人文学賞二次予選通過作品の三作品の各頁の字数を、章立ての改変機能も援用して、整理することとしました。ながくても、一頁2000字くらいになったはずです。内容はまったくかわっていません(整理爾時の入力ミスでおかしくなっているかもしれませんが)。
 一挙に改変したので、カクヨム様トップページの新着情報を荒らしてしまうのではないかと怵惕惻隠いたしましたが、きちんと整備されているようで、杞憂におわりました。
 ですが、なぜか、『失われた人類を求めて』短篇二篇だけが「最新」作品になって、愚生の頁で最上位にあがるという怪現象がおこっております。発表順とは乖離しておかしくなりましたが、愚生の不手際によるものなので、御容赦ください。

 これからも、できるだけ作品をアップできればとおもっていますので、よろしくおねがいします。

9件のコメント

  •  はじめまして。三文文士の九頭龍一鬼ともうします。
     愚生のコメントにたいして、斯様に叮嚀な御返事をいただいて、まことに恐縮です。
     瞥見したところ、風景と自我との関聯について、愚生が説明不足だったらしく、陳謝もうしあげます。

     昨日は、統合失調症の治療のために、遠方の精神科に通院する予定日であって、帰宅したのちに『日本近代文学の起源』を再読してコメントを執筆、投稿させていただいたので、(いいわけにすぎませんが)「風景の発見」について充分に再考が足りなかったと鞠躬如としております。
     臈次口もないことをもうしあげれば、結句、『日本近代文学の起源』を劉覧されるのが一番だとおもいます。けっして、難解な論文ではないので、一読して、明瞭に御理解いただけるはずです。

     コメント欄では、字数の問題で引用できなかったのですが、「風景の発見」において、柄谷は、わかりやすく、ポール・ヴァレリーたちの絵画論を手懸かりにしています。要約すれば、『絵画の歴史は、疎外されていた素材が主題にかわってゆく歴史』であって、たとえば、宗教画の場合とおもわれますが、『片隅にいた妖精のような脇役が中心にすえられ』て、さらには『そのまわりの印象や光が主題となって』いったとされています。
     その極北として、文藝復興期にダ・ヴィンチが「モナリザ」をえがいた爾時、ついに『真の意味での風景(背景)がえがかれ』て、『人間が外部から疎外され、人間は内向的な立場となった』というのです。「モナリザ」の『微笑』が、よろこびではなく、悲哀をかんじさせるのも、『風景と切り離された存在』だからだと、柄谷は古今東西の批評家の理論を輻輳させて論じています。
     『さらには『風景をえがくことは、外部を擯斥するという意味において、内向的な行為である』という時の、「外部を擯斥する」とはどういうことか。』とのことですが、まことにそのとおりで、此処は愚生の蹉跌とみたほうがただしいかもしれません。厳密には、上記のように『外部としての風景と内部としての人間が乖離させられたこと』、あるいは、人間が「風景を発見」したことによって、同時に、『人間自身も発見された』というように換言すべきだったかもしれません。
     柄谷は此処で、主体と客体は最初から認識されていたわけではなく、(モナリザが風景から切り離されたように)風景を発見したからこそ自我も発見されたとしています。『自我と風景を等価に対置することが疑問です』と仰有りますが(寧ろ、SFも執筆している立場からいうと、あらゆる物理現象や概念は科學的に等価だとおもうのですが、愚論はともかく)、斯様にみれば、自我と風景が等価である、あるいは、相剋するという意味で階層秩序的二項対立をなしていることも御理解しやすくなるのではないかとおもいます。デカルトにおけるコギトから排斥されるものが風景だけではない、というのはまことにごもっともであり、柄谷もおそらく、一端では、アナロジーとしての意味合いで標榜したのではないかともおもわれます。(厳密には、柄谷は「遠近法」によってコギトが発見された、これは「風景としての人間の発見でもある」というような論じ方をするのですが、此処までくると柄谷の論文を全文引用するしかないので割愛させていただきます)
     『つまり「ありのままに描写する」ということはすでに、存在の彼方、自我の外部(非自我)に現に屹立し、それ自体観測者の解釈を容れないほど鮮明に己を開示している(まるでハイデッガーのような言い回しですが)ものをもう一度なぞるという二度手間であり』との指摘は、まさにそのとおりなのですが、此処で重要なのは、「風景の発見」においては、前述のとおり、風景と人間は等価と見做され、『風景のみならず人間をえがくことも二度手間』であることに御留意いただきたくおもいます。
     『写実性の裏にロマンチスムが潜んでいるというのはこの意味で、写実的であればあるほど、写実的であることの不可能(普遍的に写実的であることの不可能)をますます動かし難いものにする。リアリストが実はロマンチスト以上にロマンチックだということですか。』とのことですが、そういう文脈ではありません。これも、絵画を譬えにするとわかりやすいとおもいます。以下は柄谷ではなく愚生の意見ですが、ミレーの「落ち穂拾い」は、人物も背景も『風景』としてえがかれた、絵画史上ではリアリズムの代表作とされる作品ですが、其処で風景と同等にえがかれた人物の内面こそが、近代的な一般市民の自我を象徴するものであるとみます。ミケランジェロが基督という我我にとっての『他者』をえがいたことと対蹠的に、我我一般市民という『自己』がえがかれたという点において、我我一般市民が主人公であり、主題となる、ロマン主義が成立するのです。柄谷の理窟にもどれば、国木田独歩の『忘れえぬ人々』において、主人公にとって『重大な人物ではなく、一回出逢ったくらいの人々のほうが忘れがたい』ことが、文學における『風景としての人間』の発見となり、渠等『風景としての人間』を主題とすることが、已上の絵画の譬えに関聯することになります。
     そのほか、尾川さまから様様な疑問を頂戴いたしましたが、愚生の引用した柄谷の理論は、其処まで複雑ではありません。尾川さまの怜悧さがあれば、一読して納得していただけるとおもいます。また、ラカンについては、現在、理論的な面での解説書が寡少ですので、寧ろ、Wikipediaで概論をつかんでおくくらいでも、のちのち役立つかもしれません。

     全軆的に、愚生のコメントは拙速な仕事だったといわざるをえません。もうしわけございません(本日も、偶然に仕事に暇がとれたので、本返信を執筆させていただいております、これもまた拙速ですが)。と雖も、尾川さまにも『日本近代文学の起源』に興味をしめしてくださる要因となれたことは矜持です。なお、『日本近代文学の起源』は世界的に評価、議論されている論文なので、原版から定本まで、さまざまなテクストがあります。愚生は講談社文芸文庫の第三版を劉覧したのですが、いまは絶版です。ご注意いただきたいとぞんじあげます。

     なによりも、コメント欄で本統に書きたかったことを書き忘れていました。
     個人的ですが、尾川さまの小説のような作品が文藝誌の新人賞でどのように評価されるのか興味があります。愚生の私淑している丸山健二は随筆『真文学の夜明け』のなかで、『真の文學が応募されても、理解できない下読みに確実に落とされるので意味はない』などと揮毫していますが、尾川さまの作品のような逸品が応募されても、一次選考で落選するくらいに文壇は腐っているのかたしかめてもらいたいのです。まことに勝手な意見ですが、尾川文學が文藝誌に記載され、芥川賞の候補作や受賞作にでもなれば、まだ、文壇には冀望があるようにおもわれるということです。

     尾川さまはおそらく、大學生か大卒のインテリゲンチャですので、中卒でなにもかも独学にたよってきた愚生などが文學について鞭撻をふるうなど、倒錯もよいところですが、御容赦ください。
  •  こんばんは。九頭龍一鬼です。
    『なんかもう、『起源』の半分はさらってしまった気がするほど、要所を掻い摘んでくださり、すっかり腑に落ちました。』とのことですが、正直、『ああ、本統によかった』という気持ちです。本音をもうしあげると、今回の返信でも、愚論を充分に語り尽くせなかったかとおもっていました。尾川さまの御理解がはやくて、非常に安堵いたしました。「風景の発見」は全六章からなる『~起源』の第一章にすぎず、第二章から『日本文學どころか人類文明の起源にせまっている』としかおもえないほど、面白い論考がつづきます。『なぜ文學では病人が美化されるのか』『明治維新まで日本人に道徳という観念がなかったとはどういうことか』などです。たのしみにしていてください。

    『『かく語りき』の名著紹介にありますように、私の知らない優れた著書を九頭龍さんは大量に読みこなしておられる様子。これはぜひ読んでおいた方がよいという著書を、教えていただきたいくらいです。/主に哲学と、評論で。』とのことですので、拙速ながら、部屋をみわたしておすすめできそうな哲学書と評論(辞典をふくむ)を五冊だけ臚列させていただきました。以下、さほど高額ではなく、なおかつ、図書館で借りるよりも、枕頭に積んでおくべきではないかとおもった五冊です。

    哲学書――

    『現代哲学事典』山崎正+一市川浩編
     いきなり事典です。傲慢ないいかたかもしれませんが、哲学で大事なのは『哲学史そのもの』だとおもっています。だれの箴言か失念いたしましたが、『すべての哲学書はプラトンにたいする膨大な註釈にすぎない』わけです。ですので、必読の哲学書はなにかといわれれば、プラトンを讀んでくださいとしかいえないのですが、読書するときによく、『註釈を讀んだらようやく理解できた』ということがあります。ですので、アリストテレスからデリダやサイードまでの哲学が無意味なわけではなく、矢張り、全軆的に俯瞰できるだけの知識がほしいとおもいます。本書は絶版のようですが、斯様な哲学用語事典を一冊か二冊もっておくと、それぞれの哲学者をさらに理解したり、それぞれの哲学書に挑戦したりするときに役立つとおもいます。

    『生誕の災厄』シオラン
     臚列すべきか躊躇しましたが、少々マニアックな哲学者で、前述の『現代哲学事典』でも言及されていないので、参考のためにおすすめします。躊躇したというのは、鬱病だったシオランの哲学書はすべて『鬱病患者のために書かれている』としかおもえないからです。よく、シオランは自殺を推奨しているといわれますが、おそらく、ごく一部の箴言から斯様におもわれているのでしょう(もしそうだったら、カクヨム様の規則に違反するので、そもそも、此処に書けません)。それでもおすすめするのは、『すべての哲学書を讀んだものは、最後にシオランにたどりつく』とまでいわれているからです。物理学をまなぶときに、退屈な運動力学の計算よりも、超紐理論あたりの入門書をひもといたほうがやる気がでるのとおなじで、哲学の最終形態を識っておくのもよいのではないかとおもいました。(十行くらいの断章と、三行くらいの箴言からなるのですが、おすすめの讀みかたは、三行くらいの箴言だけを中心に讀むことです、ほかはかなり難解です)
    『一冊の本は、延期された自殺だ』とあったはずですが、死ぬよりも一冊の本を讀みましょう。

    評論――

    『真文学の夜明け』丸山健二
     爾時、二十三歳という芥川賞受賞最年少記録を達成した丸山健二の最新長篇エッセイです。直截には書いていませんが、村上春樹を劈頭とする『商業主義化した文學(もどき)』の世界を徹底的に批判し、作者、読者、編集者のあるべきすがたを論じています。『文學は死んでいない。死んだのは文學もどきだ』と連呼されます。丸山健二を未読のかたは喫驚するでしょうが、段組みが現代詩のようになっているので、読了するまで時間がかかるかもしれません。評論とまではいえませんが、尾川さまのカクヨムでの御発言を讀ませていただくと、きっと、丸山健二のなげきに共感できるのでは、とおもいました。尾川さま(や同人のみなさま)のように、現代の流行の文學に辟易している作者様には、多大な元気をあたえてくれるとおもいます。

    『文学のプログラム』山城むつみ
     四篇の中篇評論からなる評論集ですが、最後の「文学のプログラム」がおすすめです。『古事記』は岩波文庫で劉覧すればわかるとおり、元来、万葉仮名(無論、当時に万葉仮名という概念はありませんでしたが)による文語体で揮毫されています。山城は此処に、『漢字を訓読みする』という『重要なプログラム』を発見しました。中華文明から輸入された漢字を音読みするだけでは駄目で、訓読みもすることで、英語にせよ、仏蘭西語にせよ、『外国語をなんでも(音をそのまま文字にして)日本語におきかえる手段を獲得』したわけです(しぇいくすぴあ、とか、あんがーじゅまん、とかです)。畢竟、『古事記』は日本古来の天皇制を盤石たらしめるイデオロギーとともに、『日本文化を根本的にグローバル化する』はたらきをもっていたことになります。保守思想と急進思想の止揚こそが日本文化であるわけです。古文のすきな尾川さまなら、きっと楽しめるとおもいます。

    『最新 文学批評用語辞典』川口喬一/岡本靖正 編
     これも辞典です。曠野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』にしようかとまよいましたが、批評理論の基礎を勉強されていたら、こちらの『最新 文学批評用語辞典』をおすすめします。批評理論の基礎に自信がない場合には、まよわず『批評理論入門』をおすすめします。此方は安価なうえにすばらしい名著です(新書版ですが、単行本くらいの価値があります)。孰れにせよ、批評するちからがあれば、創作するちからにもなります。尾川さまならば、『辞書を讀むだけの愉しみ』を御存知のはずで、その延長線上で『最新 文学批評用語辞典』を讀む愉しみも御理解いただけるかとぞんじあげます。

     少々いそいで執筆したので、うろおぼえのところもあるかもしれませんが、御諒承ください。
  • 順番に少しづつ読ませてもらってます。
    おれは読んだ小説を面白い順位でランキングつけているのですが、
    商業小説を中心にランキングしていて、ネット小説は、比較の基準になりそうなものしか順位していません。
    九頭龍一鬼氏の作品はランキングする必要があると考えて、ランキングを伝達します。
    日本語小説931作品中のうちで、九頭龍一鬼氏の
    「遥かなる遥かなる遥かなる現在此処で」は81位。
    「百頭奇譚」は136位という高評価です。
    つづいて、「TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN」を読ませてもらいたいと思います。
  •  九頭龍一鬼です。
     コメントありがとうございます。
    『日本語小説931作品中のうちで、九頭龍一鬼氏の/「遥かなる遥かなる遥かなる現在此処で」は81位。/「百頭奇譚」は136位という高評価です。』とのことですが、前回につづき、ランキングしていただき、まことにありがとうございます。うれしくおもっています。
    『つづいて、「TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN」を読ませてもらいたいと思います。』とのことですが、こちらは、原稿用紙二〇〇枚以上のながさがありますので、お時間に余裕がありましたら、ご笑覧ください。
     こんなにも愚作を愛読していただき、ありがとうございます。
  • 本当に面白いですよ、九頭龍さんの小説。
  • 「『TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN』群像新人文学賞二次予選通過作品」を読ませていただきました。
    純文学作家がSFに転向した瞬間が描かれているのかもしれないと楽しめましたが、順位は931作品中374位です。
    これからもよろしくお願いします。
  •  九頭龍一鬼です。
     コメントありがとうございます。
     あれほど長い作品を、最後まで読んでいただき、本統にうれしくおもっています。また、今回もランキングに入れていただき、ありがとうございます。
     個人的に、へげぞぞさまのTwitterを拝見させていただいたのですが、本作は、あまり、御期待にそえなかったようですね。愚生の非力を陳謝もうしあげます。
     無論、愚生はさまざまな御意見をいただくほど、創作の方向性がさだまってくるとおもっていますので、ショックをうけたわけではなく、むしろ、ありがたく存じ上げております。今回のへげぞぞさまのランキングで、どちらかというと、愚生は純文学よりSFや幻想小説のほうがむいているような気持ちがしてきました。最近は、純文学にばかりちからを入れていたのですが、ひさびさに、SF作品を新人賞に応募しようかとおもえるようになりました。へげぞぞさまの御蔭です。ありがとうございました。
     こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
  • はじめまして、坂本と申します。
    工藤様のツイートにて九頭龍様の小説を知った次第です。素晴らしい創作の数々、誠に感銘を受けました。
    また、尾川様とも面識があられたのですね? 私も「彼が見出されないのであれば、私は現代の日本文壇に絶望する」とさえ考えておりましたので、九頭龍様の慧眼を以てしても同じように感じられていたようで、おかしな話、少し安心感を覚えました。(これは全くの偶然でございます)
    今後も九頭龍様の作品を追わさせていただきます。
    突然のコメント、失礼いたしました。
  • 坂本忠恒様。
    はじめまして、九頭龍一鬼ともうします。
    工藤行人様のTwitterよりお越しいただいたということで、坂本様にも、工藤様にも、本統に感謝しております。さらに、坂本様には応援や星マークまでいただき、感謝のみならず、喫驚と感動を禁じ得ません。

    尾川様というのは、尾川喜三太様のことで間違いないと存じあげます。尾川様については、まず、愚生が尾川様の傑作に星マークと絶讃のレビューを差し上げたことから交流がはじまりました。爾来、尾川様とは昵懇の仲となり、尾川様御自身も、愚生の愚作を瀏覧いただき、『語彙が豊富なのはいいが、語義の誤用がおおすぎる、(もっと辞書をひいたほうがよいのではないか)』というような批評をしていただき、愚生も鞠躬如としながら『勉強になった』と感謝しておりました。

    ですが、愚生が『科學の特異点逢着により、人間が神のような機械をつくった』という設定の短篇を発表いたしましたところ、熱心な基督者である尾川様が、『創造主としての唯一神の存在を否定している』と誤解されたらしく、愚生は陳謝いたしたのですが、結句、諠譁別れにおわってしまいました。

    嚮後、天才ゆえの宿命なのか、ほかの読者様との狭間に軋轢の絶えなかった尾川様は、カクヨムでアカウントを開設しては閉鎖する、という循環にはいり、容易に交流できなくなってしまいました。

    余談ですが、愚生は元来、宗教SFに耽溺したことから、創作活動をはじめたので、愚作では、おおく、宗教的描写が挿入されております(たとえば、『きみをつれて』のクライマックスにあらわれる銀色の薔薇は、『神曲 天国篇』に描写される至高天、つまり唯一神のメタファーでございます)。が、如何せん、それぞれの宗派の信者様ほど、宗教に造詣のふかいわけではございませんので、ときおり、尾川様とのように諠譁になってしまいます。もし、おなじような理由で、坂本様の逆鱗にもふれるようなことがございましたら、まったく、愚生の無知蒙昧のためでございますので、御容赦ねがいたく存じあげます。

    『「彼が見出されないのであれば、私は現代の日本文壇に絶望する」』とのことですが、愚生もまったく同意いたします。尾川喜三太様といい、工藤行人様といい、すでに、現代日本文學の範疇でも最高峰の伎倆を誇示しているにもかかわらず、プロデビューしていらっしゃらないというのは、完全に日本文壇における損失に相違ないと存じあげます。

    愚生は、工藤様にも、尾川様にも、『なぜこれほど実力がありながら、新人賞に応募なさらないのでしょうか』というように質問いたしたことがございますが、不思議と、お二方とも、プロデビューには拘泥していないようでございました。無論、プロになるのも、アマチュアであるのも、各作家の自由でありますので、愚生が容喙すべきことではございません。

    『今後も九頭龍様の作品を追わさせていただきます。』とのことですが、勿論、愚生としては大変よろこばしく存じあげます。無論、愚生も今後、坂本様の御作を拝見いたしたく存じあげます。まだ、瞥見したのみですが、坂本様も語彙が豊富で、堅韌なる文軆のもちぬしらしく、また、仲間がふえたとおもい、欣喜雀躍しております。

    愚生は懶惰ですので、応援や星マークなどで、充分にお応えできるかわかりませんが、真摯に拝見させていただきたく存じあげます。

    愚作に倦厭せず、今後とも、あたたかく見守ってくださいますよう、よろしくおねがいいたします。
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