「ねぇ、慈雲。一年に一回しか逢えないって、どんな気分なんだろうね?」
あれは、いつの年のことだったか。
書類仕事を片付けている傍ら、唐突にそんな問いを受けたことがある。
「あ? ……あー、そうか、もうそんな時期か」
ちょうど乞巧奠の祭事の準備に周囲がバタついている頃だった。
祭事の取り仕切り自体は仙部の受け持ちだから、泉部側が特に動くことはない。だが忙しない空気は何となく泉部にも伝播していて、泉仙省全体が落ち着きを欠いている印象があった。
向かいの席で慈雲と同じように書類仕事に励んでいたはずである貴陽が、筆を止めて廊下を眺めている。どうやら先程からそこをバタバタと行き交っている仙部の退魔師達に気を散らされたらしい。
「僕、慈雲と引き離されて一年に一回しか逢えないって言われたら、どんな手段を使ってでも自力で川を割って慈雲に逢いに行く方法を編み出しちゃうけども」
「物騒だな」
「命じた天帝に直接対決を挑もうとしない辺り、まだ穏便でしょ」
『慈雲は?』と貴陽は小首を傾げた。筆を握る貴陽の手は、完全に止まってしまっている。恐らく慈雲が答えなければ、その手はずっと止まったままだろう。
だから慈雲は、溜め息とともに答えた。
「どうもこうもしねぇよ」
「え。まさか大人しく年一命令に従うの?」
「そもそも牽牛と織女は仕事ほっぽりだして遊んでたからそういう沙汰が降されたんだろ。だったら真面目に大人しく働くしかねぇじゃねぇか」
「えぇー? でもさぁ?」
『自業自得だろ』と続けると、貴陽はぷくぅと頬を膨らませた。どうやら回答が気に入らなかったらしい。貴陽の中ではすっかり牽牛と織女が自分達に置き換えられているのだろう。
──俺と貴陽が、ねぇ?
「もっと真面目に考えてよ」
「それでも、真面目に業務に励むの一択だな」
「はぁ?」
「真面目に働いて、一日も早く沙汰を降した天帝を説得する」
すげない返答に貴陽はいよいよ眉を跳ね上げる。
だがその表情は、慈雲がサラッと続けた言葉に崩された。
「改心したから、今度こそ一緒にいさせてくれって、実力を以て説得する。……年一でしか逢えなくなった原因はそこなんだ。一刻も早く原因を取り除いて、根本から解決するに限るだろ」
「……それでもダメって言われたら?」
「その時は決闘するのみだな」
「物騒だねぇ」
『それでも、慈雲らしいや』と、貴陽はようやく満足の笑みを見せた。
そんな貴陽に、自分も密かに笑みを浮かべたことを、覚えている。
※ ※ ※
医局の簡易休憩室に、新たに呪術医官が着任する。
その話を聞いた慈雲は、着任した医官に挨拶をすべく、医局簡易休憩室に向かっていた。その道中でそんなひと場面を思い出したのは、ちょうどあの頃と同じように仙部の退魔師達がバタバタと廊下を走り回っていたからなのかもしれない。
──大乱から一年ちょっとでまだ色々整ってねぇってのに、祭はしっかりやるんだな。
特にそこに対して不満があるわけではない。
祭は民の心を活気付け陽気を増すと同時に、御霊を鎮め陰気を散らす作用がある。直接的に慰霊に繋がる祭事ではなくても、やれば良い効果が生まれるのは事実だ。退魔師としては、祭は蔑ろにされるよりもむしろ積極的に執り行ってほしいものである。
そう思うと同時に、己の心がわずかに沈んだことも、慈雲は感じていた。
……大乱終結から、一年が過ぎた。
かつて常に慈雲の隣にいた貴陽は、もう慈雲の傍らにはいない。大乱終結後、かろうじて命を繋いだ貴陽に一方的に相方解消を宣言してから、会うことさえしていなかった。
慈雲としては、対は解消しても、交友まで断絶するつもりはなかった。だが大乱後の処理に掛かりきりになっている間に時は過ぎ、慈雲の一方的な宣言に激怒した貴陽からは連絡が入るはずもなく、気付いた時には音信不通になっていた。絶縁を宣言した側である慈雲からは連絡が取りづらくて、その気まずさに身動きを取れずにいたら、いつの間にか一年以上の時が過ぎている。
──多少は、体も良くなったんだろうな。
確かめたい気持ちはあるが、情報を得られる伝手がなかった。それとなく情報を得ようと動いたことは何度かあったのだが、煌家当主の個人情報は余程秘匿されているらしく、足取りひとつ掴むことはできていない。
──命を永らえていて、それなりに幸せに生きててくれるなら、それでいい。
もはやそれ以上は望めないし、望まない。望める立場に自分はいないと、あの大乱を通して慈雲は実感してしまった。
だからそんな感傷を自嘲の笑みとともに呑み込んで、慈雲は今日も何てことない表情を顔に貼り付ける。
これから泉部次官としての仕事が控えているのだ。個人的なつまらない感傷に浸っている暇はない。
呪術医官という存在は、大変貴重なものだ。数が絶対的に足りない上に、その数少ない呪術医官も大抵が御殿医として後宮に取られてしまう。
そんな中、今日簡易休憩室に配属となった呪術医官は、御殿医への引き抜きを蹴ってこちらに着任してくれたという話だった。
退魔師が負ってくる特殊傷病は、呪術医官にしか対処ができない。できれば新任の呪術医官には泉部と良好な関係を築いてもらいたい。そう考えた慈雲は、ほぼ泉部長官の仕事を肩代わりしている身でありながら、わざわざ自分から簡易休憩室に出向いている。
──そういえば、医局は玄家の領域だったか。
元々医局内部は『医の二極』と呼ばれる玄家と煌家がしのぎを削っていたという話だが、大乱後の今はほぼ玄家が医局を仕切っているという話だ。
ならば簡易休憩室を任された新任も玄家の関わりの者なのだろうか。いや、呪術も扱える医官であるのだから、玄家の人間とは限らないはずだが……
そんなことを考えながら、慈雲は医局の簡易休憩室に足を踏み込む。
その、瞬間。
開け放たれた窓から迷い込んで来た風に、懐かしい色が揺れているのが見えた。
「……っ」
知らず、息が詰まる。
記憶にあるよりも、背丈が伸びたような気がした。それでもまだまだ華奢な体は、見慣れない萌黄色の袿に包まれている。
相手はこちらに背中を向けていて、その顔は慈雲の方を向いていない。肩越しにチラリと見えるのは、盲人が目の代わりにするという杖だろうか。杖に結わえ付けられた鈴を揺らしながら、その人は慣れない部屋の中をゆっくりと歩き回って、部屋の全容把握に勤しんでいるらしい。
その人物が。
足を止めたまま一言も発さない慈雲に気付いたかのように振り返り、優雅な笑みを口元に広げた。
その『してやったり』という笑みを見ただけで、相手はここにやってきたのが慈雲であることを分かっているのだということも、慈雲の反応を把握できているのだということも、理解できてしまう。
「き、よう……?」
「わざわざご足労頂き、ありがとうございます。恩慈雲泉仙省泉部長官代理」
さらにその呼称で、彼が今の慈雲の立ち位置を誰よりも正確に把握していることまで理解させられてしまう。
「本日付けで医局簡易休憩室付け呪術医官の任を拝命いたしました」
杖を腕の中に抱え込むように優雅に両袖を重ねた貴陽は、……かつての慈雲の相方は、かしこまるように膝をついて慈雲に着任の口上を述べた。
「煌貴陽と申します。盲ゆえ、ご不便をお掛けすることも多々あると思いますが、医術にも呪術にも腕に覚えがございますゆえ、お役に立てるかと」
「どう、して……どうやって……っ!?」
「『どうやって』の部分は、まぁ玄家と取引をしたって感じ?」
突然のことに慈雲は碌に言葉も口にできない。対する貴陽は優雅な挙措で膝を上げると、一年の断絶を経ているとは思えないくらい軽やかに言葉を紡いだ。
「医局本局の権力を玄家に全面譲渡することを引き換えに、簡易休憩室の主として僕をねじ込ませたんだ。もちろん、泉仙省には秘密でね」
「な……っ」
「この人事は医局の人事だから、慈雲は口を挟めないよ。分かってると思うけど」
──だから泉仙省じゃなくて医局を選んだのか……っ!!
現状、泉仙省泉部はほぼ慈雲の支配下にあると言ってもいい。慈雲の現在の立場は次官ではあるが、長官としての実務を担っているのはほぼ慈雲だ。現在の長官である薀魏覚は、近いうちに大乱時の責を負い、長官の座から退くことが決まっている。
だから貴陽が泉仙省で復帰しようと暗躍すれば、ほぼ慈雲の権力によって復帰を阻止できた。入省に慈雲の認可がいる以上、貴陽は二度と退魔師として復職することは叶わない。
だが医局で医官として出仕するとなれば話は別だ。
──そもそも煌家は医局の権力者。そこに意識を配ってなかったのは、明らかに失態だった……!
そもそも慈雲の意識の中に、貴陽が医官という道を選んででも再出仕をもぎ取るという考えはなかった。煌家という在り方を否定し続けてきた貴陽が、その忌み嫌ったモノを頼ってまでここに戻ってくるとは思っていなかったのだ。
「ねぇ、慈雲、覚えてる? 僕達が牽牛と織女の話をした時のこと」
凍りついたように動きを止めている慈雲をどう捉えているのか、貴陽は瞼を閉じたままの目を真っ直ぐに慈雲に向けてクスリと笑ってみせた。
「慈雲、言ったよね? 『真面目に働いて、一日も早く沙汰を降した天帝を説得する』って」
それが慈雲の好みなんだなぁーって思ったからさ。
「僕も、一年真面目に努力して、天の川を飛び越えて、逢いにきちゃった」
一年前と変わらない……いや、より麗艶さを増した笑みを顔中に広げ、貴陽は慈雲に宣戦布告を叩き付けた。
恋しい相手であり、自分達の縁を裂いた張本人である……牽牛であり、天帝である慈雲に。
「覚悟しといて。僕はもう、対岸に引き離されてなんかやらないから」
自信満々に笑っているようで、その実この局面で拒絶を突き付けられることに怯えながらも。
一年前、一方的に別れを告げられて、泣いてすがることしかできずに対岸に置いていかれた織女が、己の足と力で地面を踏みしめ、天の川を飛び越え、真っ向から手を伸ばす。
牽牛の胸の中に飛び込むためではなく。
牽牛の胸倉を掴み上げて、もう二度と離すことがないようにと。
「恨むなら、僕に出逢ってしまったことを恨むんだね、先輩?」
……その笑みを見た瞬間、今まで気負っていたモノが少し軽くなったように思えたのだから、きっと。
きっと慈雲だってもう、とうの昔に引き返せないところまで来てしまっていたのだろう。
「……別に、恨んでなんか、いねぇよ」
『どうか気付かれませように』と願いながら、慈雲はわずかに涙が滲んでいた目を瞬きで誤魔化した。
「俺は……」
──心のどこかできっと、お前が天の川を飛び越えてくるのを、期待していたような気がするから。
きっと乞巧奠当日の夜には、見事な星空が広がるだろう。
そんな予感を抱かせる風が、一年以上ぶりに相対した一対の髪をはためかせていた。
【喩え月日を隔てても
喩え間に天地を隔てていようとも
その全てを飛び越えて
必ず貴方の手を掴みに行く】