はあ、と、ため息が漏れる。
リビングのワインセラーの前にしゃがみながら、私はため息が抑えられなかった。
背後の壁にかけられた時計を見るために振り向く。とうに、日付が変わっている。
「あなた」
声を掛けられて振り向くと同時に、元々ついていたワインセラーの近くのサイドテーブルの電気だけではなく、リビングの電気もついた。
「籤浜さん、まだなの」
妻だった。昼間と同じ服装で、どこか、疲れた顔をしていた。
「ああ。お前は、もう床に入っていいぞ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
妻は、そっと頬を撫でた。昼間は妻の顔を彩っている化粧が、男の私から見ても崩れていた。
妻は、家に客人がいる時は、泊まりでもない限りは風呂はもちろん化粧も落とさない。遠慮ではなく、妻のストイックさの賜物であるが、予想外の長丁場にそうも言ってられないのだろう。
「確か、予定ではすでに籤浜さんとあなたは仲直りしていたはずよね」
痛いところをつくな、と思った。
「……人間同士なんだから、そう予定通りにいかない」
「親友ではなかったのかしら」
「色々あったんだ」
私は、ぐ、と涙を耐えた。
親友だと、思ってたのに。
私は、かつての、学生時代の大志の姿を思い出していた。
人目を引く顔立ち。背筋が伸びた姿勢のいい立ち姿。教師からも頼りにされ、一目置かれた、かつての大志の姿。
そんな彼が、私にたくさん話しかけてくれた。同じ時間を過ごした。夢を語り合った。
……親友だと、思っていた。
まさか、大志はそうとも思っていなかったなんて。
「まあ、昔のことはいいわ。籤浜さん、財産はいかほどなのかしら」
もしかして、余裕がおありなのかしら、という妻の声。私は、それにワインやウイスキーを見繕いながら、考えた。
大志は、今に至るまでこちらの援助の申し出を断り続けている。
確かに妻の言う通り、もしかしたら大志には金の余裕があるかもしれない。大志は学生の時から真面目で堅実な性格だった。粉飾していた期間も長かったし、もし倒産したら、と考えて色々と蓄えているのかもしれない。
そうだったら、私のしようとしていることは、余計なお世話で、大志にとっては迷惑な話なのかもしれない。
でも。
「1人にしたくないんだよ」
私は、ちょうど手に持っていたウイスキーの瓶を握りながら言った。
「あいつの性格上、どうせ、誰にも頼る気はないだろう」
昼間、大志の末の弟の瀬川彰と会った。彼は、立派な人間ではあったが、どこか寂しそうだった。恐らくだが、瀬川は大志の事をよく気にかけている。大志は、その事に気がついていただろうか。どうせ口だけ、と思ってやいないだろうか。そこまで行かずとも、婿養子に行った末の弟なんて頼れない、なんて思っていないだろうか。
寂しいな、と私は勝手に瀬川の心情を想像した。私も、昼食後ずっと大志に断られ続けて、自分の気持ちも勘違いだったと大志自身に突きつけられて、寂しいし、悲しい。諦めそうになったほどだった。
息子達の事を思い出す。
息子達は、大志の息子の伊吹くんの事をよく気にかけていた。結局、見事彼を捕まえて、将来、同じ景色を見ると約束をした。
いいな、と思った。
私にはできなかった事を、息子達は見事に成し遂げた。伊吹くんを、1人にしなかった。なら、私もそうしよう。
今更なのは分かっている。
でも、だからこそ、これ以上の後悔をしたくない。
あの経営者交流会で着ていた、大志の草臥れたスーツを思い出す。もしも、大志の懐事情が悪かったら、今私が諦めたら、大志はどうなるのだろう。
もしも、大志がその命を自分から投げ捨てたら、どうしよう。私は、もう後悔はしたくない。
その為なら、金くらいなんだ。大志の命には、変えられない筈だろう。
「私は、何も言わないから」
「……ありがとう、玲奈」
妻の言葉に、私は頷いた。そのときだった。
びーーーーーー!!
ブザーの音に、私は目を見開いた。
「な、なに?」
「トイレの窓に仕掛けておいたブザーだ。大志! 逃げようとした、あいつ!!」
私は、手の中のウイスキーをそのままに、妻をリビングに残して走った。
絶対に逃すか。学生時代から抱え込んだ憧れだ。
我ながら、息子達並みに重たい感情を抱いている相手だ。
私が手を離せば、どうなるのかも、分からない相手だ。もう、絶対に離せない!
ガタンガタン、と色んなものが当たっても気にしない。ずれたものを直すのは妻がやってくれるだろう。
私は、大志を閉じ込めている部屋の扉の鍵を急いで開けた。案の定、その中には大志の姿はない。だから、私はウイスキーの瓶をテーブルに置いてから、部屋に備え付けのトイレを目指す。
ブザーの音はもうない。流石に、痩せ型の大志といえど、あの窓から出るのは難儀するだろう。こんな短時間には出られない筈だ。
大志が座っていた椅子の隣には、大志の鞄が残されている。それに、大志の靴も玄関にある。どちらも、大切なものだろう。でも、大志はそれらも置き去りに、逃げ出そうというのか、私から。1人、こんな深夜で、裸足で逃げようというのか。
私の心に、メラメラと怒りの火が灯る。
「大志」
トイレの扉に近寄って、私はノックをした。
「音がしたぞ」
「その」
大志の声に、私は心から安堵した。
これ以上、大志を1人にしてはいけない。
私や私の思いを、今まさに置き去りにされようとしていた、鞄と靴の様にはさせはしない。絶対に、大志を縛らなければ、この世に。私自身の手で。
私は、ポケットから鍵を取り出して、鍵穴にそれらを差し入れた。
狭いトイレの中の大志は、私と目を合わせようとしなかった。