世界には観客が必要である
紫陽花
月曜朝、ホームルーム前の教室で。
「シュレディンガーの猫って知ってるか?」
「箱の中に入れられて毒殺される可哀そうな猫、だよな?」
クラスメイトの
憂鬱な月曜日の朝、ホームルーム前の教室でマコトに話しかけられた
高校生という年頃のせいか、マコトもチカオも、オタク的な無駄な知識を競い合うところがある。お互い、唐突にムズカシイ単語を相手に投げてくることがあるのだ。
「んん……ん? まあ、合ってるな」
「その猫が、どうかしたのか?」
「箱が空けられるまでは、その猫が生きてるのか死んでるのか、分からない」
「そりゃそうだ」
「猫の生き死にが判明するのは、誰かが箱を開けた時ってワケ。つまり、この話のキモは、箱が空けられる前の状態を論じる事なんだよな」
「量子論だっけ? で、何が言いたいのさ」
元々シュレディンガーの猫の話は、ミクロな量子論を現実的なマクロな世界に当てはめるとおかしな事になるという、批判的な主張をするための思考実験である。
「実は先週の土曜日、3年ぶりに異世界から戻ってきてさ」
「……お前、その前の金曜日には学校に来てたじゃねーか」
「向こうに召喚されて、魔王を倒して戻ってきたら、元の時間だったんだよ」
「浦島太郎かよ。いや、その逆か」
チカオとマコトは、雑学でマウントを取り合うような間柄である。これもオタクあるあるなのであるが、このように話題がポンポンと飛びはねる。なので、ホームルーム前のざわつく教室の中で、二人の雑学の応酬に入ってくるようなクラスメイトはいなかった。
「んで?」
「お約束で女神にチート能力とやらをもらったんだけどさ、全然チートじゃないのよ」
「どんな能力よ」
「【確定させる能力】なんだと」
中二病のよくある妄想として、かつては「クラスにテロリスト」が定番であった。
最近では「異世界転生して無双」が流行りらしい。
マコトの話では転生ではなく召喚だが、面白そうなので、チカオはその設定に乗ることにした。
「そりゃアレか。はずれスキルとか不遇なジョブとか言われてるヤツが、実は物凄いのだったって話か?」
「不安定なモノを安定させるって説明だったんだけど、別にすごくは感じなかったな。使ってみて分かったのは、迷ってるヤツの後押ししたりとか、フラフラしてるヤジロベーを落としたりとか」
「意味が分からんのだが」
「能力を使うというか、意識すると定まるって感じかな」
「結局なにが言いたいんだよ」
「最初の話に戻るんだけど、どうも俺の能力は猫の入ってるフタを開けるコトらしい」
「魔王はどうした」
「それはどうでも良い。今は猫の話だ」
「どうでもいいのかよ。だけど……ああ、なるほど、生きてるか死んでるか分からない状態を、どっちかに定めるってコトか」
「ところで、世界五分前仮説ってあるじゃん」
再びの話題転換である。マコトとの話は面白いのだが、瞬発力も必要なので、脳が疲れることもある。だが、月曜の朝ということもあって、チカオにはまだ余裕があった。
「お前、オレが何でも知ってると思うなよ?」
「知らないのか?」
「いやまあ、知ってるけどさ。人間原理と似たヤツだろ?」
「ああ、人間原理も面白いな。そう、世界は五分前に始まったコトを、厳密には否定できないって話。じゃあ、その五分って、誰にとっての五分だと思う?」
「誰の……? そういや誰なんだろうな。神様?」
「お、イイ線いってるな。この仮説は、主体となる視点、観測者がいないと成り立たない。別にそれは神様でなくてもいいんだけど、とにかく見ている人間が必要だ」
「つまり、量子論も世界五分前仮説も、観測者が大事ってコトか」
「そういうこと。そこで、俺の【確定させる能力】なんだが」
「やっと話が戻るのか」
戻ったのかどうか怪しいものだが、チカオはマコトの言いたい事がなんとなく分かったような気がした。マコトが、その観測者ということになるのか。
「世界は、俺が観る前には存在するかしないか、二つの状態で存在する事になる。世界を量子論的に見ると、存在は可能性でしか定義できないからな」
「それじゃ、なにか? お前から観て見えないものは、存在しないかもってことか? 例えば、廊下の向こう側とか」
「そういうことになるな」
「廊下の向こう側から、誰かが出てくるような場合はどうなんだよ。ほら、立花がいま入ってきた」
もうすぐホームルームが始まる時間である。クラスメイトの立花は、だいたいいつも、遅刻にならないギリギリの時間に登校してくる。
「そこで、世界五分前仮説だよ。俺が観た瞬間に存在が確定するけど、それはそれまで存在していたものとして現れる」
「ってことは、この俺も、今朝お前に会って話しかけられるまでは、存在しなかったかもしれないってことか」
「そういうこと」
「そんなんじゃ、世界はおかしなことにならないか? いや、お前から見て、だけど」
「そこはそれ、俺という人間がこれまでの人生で身に着けた常識が世界を形作るってことなんだろうな」
「つまり、この世界はお前の観ている夢みたいなものか。まるで
チカオもマコトも、お互いが当然知っているものとして話している。
この世界は、どこかで眠る巨大な
そして彼の名前は、
「勇者ハマグリってことか? まんまお前のことだな。そういうオチか。なかなか上手いじゃん」
「面白いだろ? だから、俺が知らない、見ていない世界は存在しないんだ。未知の世界なんてものは、実は無い。魔王もこれで倒したんだ。いや、倒したというより。魔王の存在しない世界として想像してみた。そうしたら、魔王はいなくなった」
「その話、まだ続いてんのか。なら、魔王を倒すのに3年も必要なかったんじゃねーの?」
「俺がこの【確定させる能力】を把握するのに、3年かかったってことだよ」
「そいつはお疲れ様」
「信じてないな?」
「ネタとしちゃ面白かったよ」
「なら、もっと面白いものを見せてやるよ。廊下の向こう側を見てみな」
「うん?」
そう言って、マコトは彼自身から見えない廊下の向こう側を指差した。
もうすぐホームルームが始まる。廊下を担任の教師が歩いてくるはずである。
マコトに言われるまま、チカオは頭だけを教室から出して廊下をヒョイっと覗き込んだ。
何も無かった。
「……え?」
暗くなっていたとか、闇が広がっていたとかではない。
ただ、何も無かった。
近いのか遠いのかも分からない無が、そこにはあった。
チカオが慌てて振り返ると、何事も無かったかのような教室の中で、マコトは寂しそうに笑っている。そして、さよならの形に手を振って目を瞑った。
今のマコトは、何も観ていない。
その瞬間、世界は存在を止めた。
*
「やれやれ、やっぱりか。魔王どころか世界を壊す力を持った俺を、そう易々と返すワケがないと思ったんだ。さっきまで俺が見ていた……観測していた世界は、俺が観測していたから存在していたんだな」
「その通りです。それが分かっているのなら、気付かないフリをして一生を終えればいいものを。アナタが観ている限り、あの世界は実際に存在していたのですから」
何もない空間にいるのは、マコトと女神のみである。
「元の世界に返すと言われたとき、やけに念入りに説明してきたと思ったよ。俺が召喚される直前の情報を、随分と事細かに映像まで使って説明したな」
「アナタが、あの世界で違和感を抱かないようにする為でしたが……」
「でも、気付いちゃったんだから仕方ない。ところで、神様ってのは、その存在を信じる人とそうでない人がいるよな……」
「まさか……」
「神様ってのは、人間にとっては形而上の存在と言える」
「待っ……………………!」
マコトが目を閉じ、再び開いたとき、この何もない世界にいるのは、マコトだけになっていた。
「俺の知らない、未知の世界は存在しない。さて、じゃあ、この俺が存在するのは、いったい誰が観測しているからなのか……」
何も無い世界で一人つぶやくマコトは、当たり前のように
「……見ているな、お前? お前もよく考えるといい……お前の観ている世界は……」
世界には観客が必要である 紫陽花 @joe_k
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