明日覚書
不思議乃九
明日覚書
世界は、午前七時の電子音に合わせて、毎朝ひとつの姿へ収束する。
部屋の輪郭が、暗闇から立ち上がってくる。俺の名前は朝永。だが、それを裏づける昨日の記憶はない。夜ごと、誰かが俺という書物を開き、“昨日”だけを丁寧に破り取っていくように、過去は空白のまま消えている。
テーブルの上には黒い手帳――『観測記録』。
これは昨日の俺が今日の俺へ宛てた、唯一の”過去”。
【観測記録 No.2847】
09:00 喫茶店『ペチカ』
カウンター右から三番目
09:30 深緑のトレンチコートの女性入店
彼女の「ごめんなさい」に対し、返答は「いいえ」
重要:今日は収束点Alpha-7。逸脱禁止。
被害者:なし(指示が完全に遂行された場合のみ)
“収束点”。
その言葉の冷たさだけで、この世界の骨格が軋む気配がした。
鏡を見る。左頬の古い傷。薬指にだけ残る白い輪。俺は過去を知らないのに、身体だけは過ぎた時間を覚えている。
俺は、手帳の指示に従って喫茶店へ向かった。
九時二十八分。
深緑のトレンチコートの女性が入店する。
指示通りなら、右から三番目に座り、俺の肩に触れ、その拍子に「ごめんなさい」と声をかけてくるはずだった。
だが――彼女は一度三番目に視線を落とし、ためらうように、隣の四番目へ腰を下ろした。
世界の表層が、微かに擦れる音がした。
予定されていた”存在しないはずの会話”に、身体が反射した。
「……いいえ」
意識より先に、“指示”が口を動かしていた。
直後、店奥からガラスの割れる音。
鈍い衝突音。
マスターの身体が床に沈み、赤い色がタイルを染めていく。
逸脱。
“被害者ゼロ”という未来は、ガラス細工のように脆かった。
たった一つの席の違いが、未来の輪郭を暴力へ引き戻した。
店は、すぐに騒然となった。
誰かが救急車を呼び、誰かがマスターに駆け寄る。
俺は静かに立ち上がり、店を出た。
通報すべきか?
だが、手帳には何も書かれていない。昨日の俺は、この”逸脱後の行動”を想定していなかったのだ。
帰宅し、手帳の余白に書き込む。
「今日、マスターが死んだ。
原因:女性が指定席に座らなかった。
教訓:他者の自発性に依存してはならない。」
明日の俺は、また無から始まる。
だが、この教訓だけは引き継がれる。
失敗が、次の成功を生む。
それが、俺たちの唯一の進化だった。
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二.量子因果律の鎖
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帰宅した俺は、手帳の理論ページを開く。
昨日の俺が残した、冷たく精密な分析。
【量子因果律に関する覚書】
俺は、量子的に無数に存在する未来分岐を、
“観測”という行為を通じてひとつに収束させる能力を持つ。
ただし、未来を確定させるためには代償が必要だ。
この世界は、収束のたびに”誰か一人の死”を要求する。
俺の記憶が毎日消去されるのは、この能力の安全装置である。
過去の選択を保持してしまえば、観測の偏りが発生し、世界の死者は跳ね上がる。
【過去の記録より抜粋】
No.0028 駅ホームの女性(転落)
No.0134 公園の子供(遊具事故)
No.2846 喫茶店マスター(逸脱死)
昨日の俺は、膨大な試行の末に”誰も死なない未来”を見つけた。
だが今日の俺は、それを壊した。
壊した責任は誰にある?
昨日の俺か?今日の俺か?
それとも、この世界そのものか。
俺は昨日を背負えない。
罪の連続性を持たないからだ。
──────
手帳をめくる。
No.0028のページに、詳細な記録が残されていた。
【観測記録 No.0028より抜粋】
あの日、俺は駅のホームで未来を観測した。
未来A:若い女性が電車に轢かれる
未来B:老人が階段で転倒死
未来C:誰も死なない
俺は迷わずCを選んだ。
手帳に、精密な行動指示を書き込んだ。
07:42 改札を通過
07:45 ホーム階段を上る
07:48 電車到着。乗車せず見送る
07:52 次の電車に乗車
完璧だと思った。
だが――。
女性は、指示とは違う時刻に改札を通った。
わずか三分の誤差。
前の電車が遅延していたのだ。
ホームの端で、彼女はスマートフォンを落とした。
拾おうと身を乗り出した瞬間――。
俺は叫ぶことができなかった。
記録には「沈黙せよ」と書かれていたからだ。
未来Cでは、俺が声を出す行為そのものが、別の死を呼び込むと計算されていた。
電車が入ってくる。
彼女の身体が、線路へ落ちる。
俺はただ、見ているしかなかった。
その日の夜、俺は手帳に書いた。
「未来Cは、完璧な遂行によってのみ成立する。
世界は、わずかな逸脱も許さない。
他者の行動を”予測”することはできても、“制御”することはできない。
教訓:逸脱は、必ず起きる。
ならば――逸脱しても死なない未来を選ぶべきか?
いや、違う。
逸脱を起こさせない設計をすべきだ。
他者に依存しない。
俺自身が、能動的に未来を導く。」
翌朝、俺はまたすべてを忘れた。
だが手帳には、新しい一行が加わっていた。
「逸脱は許されない。だが、逸脱は必ず起きる。
ならば、俺が世界を動かせ。」
──────
俺は手帳を閉じた。
No.0028の俺が学んだ教訓が、
No.2847の俺へと引き継がれている。
だが、それでもなお――
今日の俺は失敗した。
二千八百四十七日の蓄積があっても、
世界は、まだ俺たちより複雑だ。
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三.最適解という絶望
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夜十一時。
枕元の未来観測装置が、低い音を立てて点灯する。
三つのモニターA・B・Cが、明日の”死”の候補を提示する。
未来A:大家・月影さんが階段から転落死
未来B:若い会社員が駅ホームで轢死
未来C:誰も死なない。ただし、行動は極めて複雑
俺は迷わずCを選ぶ。手帳に明日の指示を書き込む。
だが書き終えた指が震えていた。
——なぜ俺は、毎日この地獄を選び続ける?
答えは、かつて月影さんが語った断片にある。
【月影証言(過去の抜粋)】
「朝永さん。あなたは三十年前、この能力を開発した研究者でした。
そして、“被害者ゼロ”の未来には共通点があります。」
「あなたが死ぬ未来では、他の誰も死にません。」
世界が要求する”死”は、俺自身で代替できる。
俺が死ねば、因果律は静かに安定する。
だが――月影さんは震える声で続けた。
「能力が、あなたの死後に他者に移る可能性があります。
あなたの死は救済ではなく、呪いの移譲になるかもしれません。」
──────
その夜、月影さんは俺の部屋を訪れた。
「朝永さん。今日も、誰かが死にましたね。」
俺は答えられなかった。
昼間の出来事は覚えている。だが、それが”俺の責任”なのかどうか、判断できない。
「あなたは、自分を責める必要はありません」
月影さんは静かに続けた。
「あなたが選んだ未来は、正しかった。
ただ、世界が――複雑すぎただけです。」
「……俺は、なぜこれを続けているんですか?」
月影さんは、俺の目をまっすぐ見た。
「それは、あなた自身が決めたことです。
三十年前、あなたはこの能力を開発した。
量子観測理論の応用実験。未来予測システム。
だが、実験は暴走しました。
システムは、あなた自身と融合した。
そして――世界は、収束のたびに死を要求し始めた。」
「……俺のせいで、人が死んでいる?」
「いいえ」
月影さんは首を横に振った。
「あなたがいなければ、もっと多くの人が死んでいます。
あなたは、毎日”最善”を選び続けている。
ただ、最善でも――ゼロにはならないだけです。」
「死ねば、楽になる?」
「ええ」
月影さんは頷いた。
「あなたが死ねば、誰も死なない未来が訪れます。
観測装置は停止し、世界は自然な因果律へ戻ります。
ただし――」
彼女は震える声で続けた。
「能力が、他者に移る可能性があります。
ランダムに選ばれた誰かが、あなたと同じ地獄を生きることになる。
その人には、あなたのような”覚悟”も”記録”もありません。
世界の死者は、跳ね上がるでしょう。」
俺は拳を握った。
「なら、俺は死ねない」
「はい。だから、あなたは生き続けています。
二千八百四十七日、毎日同じ決断を。」
「……俺たちは、同じ人間なんですか?」
「わかりません」
月影さんは微笑んだ。
「記憶がないなら、人格の連続性はない。
哲学的には、あなたたちは別人かもしれない。
でも、あなたたちは同じ意志を持っています。
それだけで、十分ではないでしょうか。」
俺は手帳を見た。
二千八百四十七人の”俺”が、
この一冊の中で意志を共有している。
「……俺は、明日も生き続けます」
月影さんは小さく頷いた。
「ええ。あなたは、その道を選びました。
何度でも。」
──────
昨日の俺は、この最も”楽な”未来を拒んだ。
死ぬことではなく、生き続けることを選んだ。
呪いを誰にも渡さないために。
それは逃避ではない。
責任だ。
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四.連続性という奇跡
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俺には記憶がない。
昨日の俺と今日の俺は、別々の存在だ。
だが、この手帳が意志の連続性を担っている。
二千八百四十七日の選択が、
“俺”という存在を毎朝再構築している。
手帳に、明日の指示を書く。
【観測記録 No.2849】
明日の俺へ。
今日の俺は、収束点Alpha-9を選択した。
被害者はゼロ。ただし逸脱リスクは高い。
今日の失敗から学んだ。
“他者の自発”に依存してはならない。
09:47 深緑のコートの女性入店。
彼女が席を選ぶ前に、俺から能動的に声をかける。
「そちら、座りにくくありませんか?」
→ 右から三番目の席を指し示し、誘導せよ。
明日の逸脱は”他者の選択”では防げない。
俺自身の能動が、未来を守る鍵になる。
No.0028の教訓:逸脱は必ず起きる。
No.2847の教訓:他者に依存するな。
No.2849の方針:俺が世界を導く。
明日の俺よ。
お前は今日の俺の失敗を知らない。
だが、この指示には失敗の教訓が込められている。
信じろ。
昨日の俺を。
昨日の俺より。
手帳を閉じる。
明日また、俺は無から始まる。
だが、その無の底には、昨日の俺が積み上げた二千八百四十八日の意志がある。
俺は静かに目を閉じた。
世界が収束へ向かう気配が、暗闇の底で微かに震えていた。
──────────────────────
エピローグ.収束への道程
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【観測記録 No.2860】
明日の俺へ。
連続13日、被害者ゼロを達成している。
No.2849の方針――“俺が能動的に世界を導く”――が、機能し始めている。
世界の”抵抗”が弱まっているのを感じる。
収束点の選択が、以前より容易になった。
未来Cの行動は、依然として複雑だ。
だが、複雑さそのものが減少しつつある。
量子因果律が、変化している。
これは、不可能ではない。
俺たちは、正しい方向へ進んでいる。
昨日の俺より。
──────
【観測記録 No.2880】
明日の俺へ。
連続33日、被害者ゼロ。
今日の観測で、新しい発見があった。
未来Cの”複雑な行動”が、単純化され始めている。
以前は十数項目あった指示が、今日は五項目で済んだ。
世界そのものが、“誰も死なない未来”へ傾き始めている。
量子的に見れば、俺たちの連続的な観測が、
未来分岐の確率分布を書き換えているのだろう。
“誰も死なない未来”の確率が、上昇している。
俺たちは、世界を変えつつある。
昨日の俺より。
──────
【観測記録 No.2900】
明日の俺へ。
今日で、俺たちは二千九百日目だ。
過去五十三日間、連続で「被害者ゼロ」を達成している。
量子因果律は、収束し始めている。
今日の観測では、未来A・B・Cのすべてで死者がゼロだった。
これは、初めてのことだ。
“誰も死なない未来”が、この世界の標準へと書き換わりつつある。
俺たちの長い戦いは、無意味ではなかった。
──────
明日の俺よ。
お前はまた無から始まる。
だが、お前は一人ではない。
二千九百人分の”俺”が、お前を支えている。
手帳を開け。
指示に従え。
明日を守れ。
そして――いつか、この戦いが終わる日を信じろ。
世界は、収束する。
俺たちが、その道を拓いている。
昨日の俺より。
【終】
明日覚書 不思議乃九 @chill_mana
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