脳幹 まこと


 名前を聞かれるのが、この世で一番嫌いだ。

 二番目は、その漢字を聞かれること。

 三番目は、その読みを教えること。

 あたしの名前は「蕺」。読み方は「どくだみ」。そう、あの雑草のドクダミだ。


 漢字一文字で、草冠がついていて、植物由来の名前。そこまでは「あおい」や「あかね」と同じ。でも、雰囲気が全然違う。

 というか、存在を知ってる人間が日本に何人いるの、この漢字。入力しようとしたら変換候補に出てこないの、自分の名前が。役所も通すなってそんな読み……ドクだよ、ドク。


       * * *


 そんなわけで、中学に入学するとき、思春期のあたしは覚悟を決めた。

 ここでは「すみれ」として生きる。

 入学式の翌日、担任の先生を呼び出した。


「先生、お願いがあります」

「なに、鶴見さん」

「あたしの名前、『すみれ』って呼んでほしいんです」

「……読み方の確認? ええと、鶴見……『蕺』……」

「それ読めます?」

「……いや」

「ドクダミって読むんです」

「…………」


 先生の沈黙は長かった。たぶん色々考えてくれたんだと思う。


「……わかった。出席簿にはふりがな振っておくね。『すみれ』で」

「ありがとうございます」

「漢字聞かれたら?」

「旧字体って言います。渡辺のなべみたいなやつだって」

「……よく考えたね」

「死活問題なので」


 先生は気まずそうに笑っていた。でも、約束は守ってくれた。この人はあたしの共犯者になった。


       * * *


「鶴見すみれ」として三ヶ月。順調だった。

 クラスメイトに「すみれって漢字、どう書くの?」と聞かれたとき、あたしはスマホのメモ帳に「蕺」と打って見せた。


「うわ、なにこれ。すみれってこんな難しいの?」

「旧字体だから。今はあんまり使わないやつ」

「へー、渡辺の難しいやつみたいな感じ?」

「そうそう、それ」


 内心、心臓がバクバクしていた。でも、顔には絶対出さない。これが生存戦略だ。

 むしろ、少し誇らしかった。「すみれってこんなに難しい漢字なんだねえ」と感心されるたび、あたしは曖昧に笑った。複雑な気持ちだった。嘘をついている後ろめたさと、その嘘が通用している安堵と、なんか妙な達成感。

 ちなみに、クラスに本物の「菫」がいないことは入学初日に確認済みだ。いたら終わりだった。「私はその漢字じゃないけど」って言われた瞬間に詰む。

 あと怖いのは、誰かが「蕺 読み方」で検索することだ。最近のスマホは賢い。手書き入力だってできる。調べられたら一発でバレる。だから、なるべく漢字は見せないようにしていた。聞かれたら口頭で「草冠に何か色々」って濁す。実際草冠以外、どうにも形容しにくいおかげでみんな納得してくれた。


 完璧な嘘なんてない。

 でも、バレなければ本当と同じだ。

 そう思っていた。思っていたのだ。


       * * *


 夏休み明け、駅前のスタバで優奈とフラペチーノを飲んでいたとき、それは起きた。


「あ、どくだみちゃーん!」


 聞き覚えのある声。振り向くと、小学校の同級生、真帆が手を振っていた。

 時間が止まった。

 優奈が「え?」という顔をしている。真帆が近づいてくる。あたしの脳内で警報が鳴り響いている。


「久しぶり! 中学別になっちゃったから会えなかったね」

「……う、うん。久しぶり」

「どくだみちゃん元気だった?」


 二回言った。二回。

 優奈の視線があたしに刺さる。


「……ごめん、どくだみ、ってなに? あだ名?」

「あ、えっと……」


 真帆が無邪気に答える。


「この子の名前だよ。漢字読めないけど、ドクダミって読むんだって。面白いよねー」


 空気が凍った。

 ドクダミは、近くにいるだけでは臭わないらしい。

 葉をちぎったとき、茎を折ったとき、初めてあの独特の臭いを発する。傷つけられて初めて、周りに「何か」を感じさせてしまう。

 あたしも、そうなのかもしれない。

「すみれ」として静かに生きていれば、誰にも迷惑をかけなかった。そのつもりだった。でも、名前をちぎられた。

 あたしは別に毒じゃない。でも、名前をちぎられるたびに、あの臭いが出てしまう。自分でも止められない。

 真帆は悪気なく、あたしの葉をちぎった。

 優奈は今、その臭いを嗅いでいる。


       * * *


 その日から、何かが少しずつ壊れていった。

 優奈は何も言わなかった。でも、LINEの返信が遅くなった。「既読」がついてから返事が来るまでの時間が、どんどん長くなっていく。

 一週間後、優奈と真帆が一緒に帰っているのを見た。あたし抜きで。

 そしてある日、クラスのグループLINEに誰かが貼った。

「蕺 読み方」の検索結果のスクリーンショット。


【蕺】音読み:シュウ 訓読み:どくだみ


 コメントは誰もつけなかった。それが余計に怖かった。

 翌日、教室に入ると、会話が止まった。すぐに再開されたけど、あたしの方を誰も見なかった。

 先生にも伝わったらしい。「すみれ」と呼ばれなくなった。代わりに「鶴見さん」で統一された。それはそれで優しさなのかもしれない。でも、あたしの「すみれ」はもう死んだのだと思った。

 嘘がバレることより、バレた後の空気が怖い。

 誰も責めない。誰も触れない。

 ただ、なんとなく、距離ができる。

 ドクダミみたいに。

 一度ちぎられたら、もう元には戻れない。

 臭いは広がり続ける。

 ああ、あたし、名前通りになってきたな。

 笑えない冗談だ。


 夕食時、改めて両親に問い詰めた。


「ねえ、なんであたしの名前、蕺なの」


 父、テレビを見ながら。


「んー、画数がよかったんじゃなかったかな」


 母、味噌汁をよそいながら。


「お父さんがこだわってたのよねえ」

「いや、お前が庭に生えてたのを見て言い出したんだろ」

「そうだっけ? まあ可愛いと思ったのよ、響きが」


 響きが可愛い。ドクダミが。

 この人たち、本当にあたしの親なのだろうか。

 そして最後にお決まりの説教。


「でもね蕺、親からもらった名前は大切にしなさい」

「そうだぞ。自分の名前を恥じるなんて、名前に対して失礼だ」


 あたしはこの瞬間、世の中には「正論の形をした暴力」があることを学んだ。


       * * *


 ある日の理科の授業。先生がドクダミについて説明し始めた。

「ドクダミは別名『十薬じゅうやく』とも呼ばれ、古くから薬草として重宝されてきました。解毒作用、利尿作用、抗菌作用……」

 教室中の視線があたしに集まる。誰も何も言わない。でも、集まる。

 先生だけが気づいていない。いや、気づいてて続けてる可能性もある。どっちにしろ地獄。

 あたしは「だから何」という顔で窓の外を見た。


 昼休み、空気が妙にざわついていた。

 後ろの席から声がした。


「なあなあ、鶴見ってあだ名なんにする?」


 山崎だ。クラスの中心にいる陽キャ。悪いやつじゃない。悪いやつじゃないから厄介なのだ。


「ドクドク……いや、なんか怖いな。ダミ? ダミちゃん? いや関西弁みたいだな」


 周りがクスクス笑い始める。

 あたしは窓の外を見続けた。心臓がうるさい。


「ドクちゃん? いやこれも違うか。毒ってついてるのがな……」


 笑いが大きくなる。

 やめて、と思った。声には出さなかった。

 山崎が腕を組んで、本気で悩んでいる。本気で。悪意なく。あたしのあだ名を、親しみを込めて、考えてくれている。

 それが一番きつかった。


「ちっとも浮かばねえ! そんなことあるぅ!?」


 教室が爆笑に包まれた。

 山崎も笑っていた。周りも笑っていた。誰もあたしを傷つけようとはしていなかった。

 ただ、面白かっただけ。

「ドクダミ」という名前が、エンタメとして消費されただけ。


 あたしは笑わなかった。

 笑えなかった。


 視界が滲んだ。


……え、うそ。


 やめて。

 今じゃない。

 ここじゃない。



 涙が出た。

 意志とは関係なく、勝手に。


 止まらなかった。

 どばどばと、みっともないくらい出た。


 教室が静まり返った。

 さっきまでの笑いが、嘘みたいに消えた。


「え、鶴見……?」

「おい山崎、お前……」

「いや、俺、そんなつもりじゃ……」


 ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がった。

 何も言わずに早足で教室を出た。

 廊下を歩きながら、涙を拭いた。拭いても拭いても出てきた。保健室までの道のりが、やたらと長かった。


       * * *


 保健室のベッドに横になりながら、天井を見ていた。

 養護の先生は何も聞かなかった。「少し休んでいきなさい」とだけ言って、カーテンを閉めてくれた。


……あたしは、何に泣いたんだろう。


 山崎に怒っているわけじゃない。あいつは悪くない。本当に、ただ仲良くしようとしてくれただけだ。

 クラスメイトに怒っているわけでもない。笑うのは普通だ。「ドクダミって名前であだ名が浮かばない」は、客観的に見れば面白い。

 じゃあ、何に?


 この名前をつけた人に、だ。


 結局、そこに行き着く。

 スマホを取り出して、母親に「体調悪いから早退する」とだけ送った。既読はすぐについた。「わかった、気をつけて帰ってきてね」と返ってきた。

 気をつけて帰ってくる。いつも通りの返事。いつも通りの、何も知らない母親。

 あたしは画面を閉じて、もう一度天井を見た。

 帰りたくないな。

 でも、ここにもいたくない。

 どこにも、いたくない。


 家に帰っても、何もする気が起きなかった。部屋でベッドに転がって、天井を見ていた。

 夕方、部屋のドアがノックされた。


「蕺ー、ちょっといい?」


 母親が入ってきた。手にはマグカップ。


「体調悪いんでしょ。これ飲みなさい」

「……何」

「ドクダミ茶。体にいいのよ」


 あたしは母親の顔を見た。

 何の悪意もなかった。本当に、純粋に、娘の体調を心配して、ドクダミ茶を持ってきている。この人は何も知らない。何も。


「……ありがとう」


 受け取った。飲まなかったけど。

 母親が部屋を出ていった後、マグカップを見つめた。湯気が立っている。ドクダミの、独特の匂い。


……笑えばいいんだろうな、これ。


 ちっとも笑えないんだけど。


       * * *


 翌日、学校に行った。行きたくなかったけど、休んだら余計に面倒なことになる。

 教室に入ると、空気が変わった。みんながあたしを見て、すぐに目を逸らす。腫れ物を扱うような、あの空気。

 席に着いて、教科書を出していたら、山崎が近づいてきた。

 いつもの軽い感じじゃなかった。妙に真面目な顔をしている。


「鶴見」

「……なに」

「昨日は……ごめん」


 周りが静まり返った。


「俺、ほんとにそんなつもりじゃなくて……ただ、仲良くなりたくて、あだ名とか考えたら楽しいかなって……」

「いいよ別に」


 本心だった。山崎は悪くない。それはわかっている。


「……でも、俺……」


 山崎の声が震えた。

 え、と思った瞬間、山崎の目から涙がこぼれた。


「俺さ、昨日ずっと考えてて……俺が鶴見の立場だったらって。あの名前で、ずっと生きてきて、やっと中学で新しくやり直そうとしてたのに、俺があんなことして……」


 山崎が袖で目を拭った。


「俺、鶴見の立場だったら、逃げ出して、二度と学校来ねえかもって……俺、そんなひどいことしたんだなって思ったら……」


 教室がしん、と静まっている。

 山崎が泣いている。あたしのために。あたしがつけられた名前のせいで、山崎が泣いている。

 なんで、あたしが泣かせた側みたいになってるの。

 そう思った。思ってしまった。


「ほんとにいいから。山崎、泣かないで」

「ごめん……ほんとごめん……」


 周りのクラスメイトが、どう反応していいかわからない顔をしている。

 あたしは山崎の背中をぽんぽん叩いた。慰める側になっていた。なんだこれ。

 許すのも、重い。

 許さないのも、重い。

 どっちにしても、あたしの名前が誰かの荷物になっている。

 それが、たまらなく嫌だった。


       * * *


 そこから、クラスの空気が更に変わった。

 誰もあたしをからかわない。誰もあたしの名前に触れない。山崎はあたしと目が合うとぺこりと頭を下げて、すぐに離れていく。

 優しさ、なんだと思う。傷つけないように、気を遣ってくれている。

 でも、それはそれで孤独だった。


「鶴見さん、これお願い」

「鶴見、ちょっといい?」


 下の名前を呼ばれなくなった。先生も、クラスメイトも。「鶴見」で統一。それが暗黙のルールになった。

 笑い話にしてしまえばいいのかもしれない。自分から「あたしドクダミです! 雑草魂で駆け抜けますんで、ヨロシク!」とか言って、ネタにしてしまえば。そうすれば、みんな笑ってくれるし、楽になるのかもしれない。


……無理だ。


 そこまで道化になれない。

 というか、なりたくない。


 なんであたしが、自分の名前を笑わなきゃいけないの。


 その夜、また眠れなくなって、スマホを開いた。

「ドクダミ」と打ち込む。何度も調べた。薬効は知っている。十薬とも呼ばれること。古くから使われてきたこと。

 でも、それだけじゃ足りなかった。


 そういえば、これの花言葉ってなんだっけ。


「ドクダミ 花言葉」


 期待はしてなかった。雑草だもの。藤や葵みたいな高貴なものじゃないもの。

 結果の画面には「白い追憶」「野生」と書いてあった。


 白い追憶、って何。

 意味わかんない。でも、なんか……いいかもしれない。

 野生、は……うん、まあ、たくましく生きろってことでしょ。

 画面をスクロールする。

 ドクダミの花の写真が出てきた。白くて、小さくて、よく見ると可愛い。十字架みたいな形をしている。


……あたし、この花ちゃんと見たことなかったな。


 雑草だと思っていた。庭に生えてたら抜くもの。匂いが独特で、あんまり好かれない草。

 でも、花は可愛い。花言葉も、悪くない。

 そして、ドクダミは強い草だということを知った。踏まれても抜かれても、また生えてくる。生命力が強い。だから雑草扱いされる。でも、だから絶対に絶えない。

 ドクダミの花言葉を知ってるやつ、クラスにあたしだけだろうな。

 っていうか日本でどんだけいんのよ、ドクダミの花言葉を本気で調べた中学生。

 いたら会いたいわ。同じ名前だったりして。いないか。いたら怖いわ。


 少しだけ、笑えた。


       * * *


 翌日の朝、通学路を歩いていたら、道端にドクダミが生えているのを見つけた。

 今まで何度も通っていたはずなのに、気づかなかった。気づきたくなかったのかもしれない。

 しゃがんで、じっと見てみた。

 白い小さな花が咲いていた。四枚の花びらが、十字架みたいに開いている。


……意外と、悪くないじゃん。


 誰かに見られたら恥ずかしいので、すぐに立ち上がった。

 でも、少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。

 周りがあたしの名前を愛さなくても、あたしが愛してやればいい。

 自分の意志で。誰に言われたからでもなく。

 改名届は、もうちょっと考える。十八になったら出せるらしいし。

 いっそ「十薬とうや」とかに変えるのもアリかもしれない。まだマシな響きだし。それはそれで説明面倒か。

 とりあえず、明日も「鶴見」として学校に行く。

 でも、鏡の前では「蕺」って呼んでやる。

 誰にも見せない、あたしだけの名前として。

 いつか、堂々と名乗れる日が来るかどうかはわからない。

 でも、今日よりはマシな明日が来るといいな。いや、マシな明日にしてみせるよ。


 だってドクダミは強い草だから。

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