第5話

 深淵アビスの第9階層、「腐食の湿原」。視界を埋め尽くすのは、極彩色の羽を持つ巨大な蛾が撒き散らす、濃密な紫色の鱗粉だった。


「……ッ、ごほっ」


 御剣凛子は、口元を袖で覆いながら膝をついた。甘ったるい芳香を含んだその紫煙は、吸い込んだ瞬間に神経を焼き、筋肉の自由を奪っていく。強力な麻痺毒だ。


(指が……動かない)


 愛刀を握る右手が、痙攣して言うことを聞かない。薄笑いを浮かべるような模様の羽が、彼女を繭に絡め取ろうと迫ってくる。意識が遠のく。手足の感覚が泥のように重くなる。


「……ふざけ、ないで」


 凛子は残った力を振り絞り、自分の下唇を思い切り噛み切った。走る激痛。口内に広がる鉄の味。その鋭い痛みだけを頼りに、彼女は無理やり覚醒させた脳神経で、紫色の霧を切り裂いた。


 ◆


 カランコロン、とドアベルが鳴った時、俺はカウンターの中でコーヒーフレッシュの在庫を数えていた。


 暇なのだ。この店『純喫茶・ハイカラ』の午後の静寂は、無響室のそれに近い。


 俺が自分の耳鳴りに耐えかねて叫ぶか、店が潰れるか、どちらが先かというチキンレースの真っ最中だ。


「いらっしゃいませ」


 俺はポーションミルクの袋を置いて顔を上げた。そこに立っていたのは、いつもの彼女だった。


 セーラー服の少女、御剣凛子。


 だが、今日の彼女は、入店からして様子がおかしかった。ドアを開ける手つきがぎこちない。


 まるで、腕に目に見えない重りをつけられているかのような、不自然な挙動だ。


 さらに、歩き方も変だった。右足を引きずり、時折ピクン、と痙攣するように膝が折れそうになる。


 彼女はカウンター席まで辿り着くと、椅子に座るのではなく、崩れ落ちるように着席した。ガタン、と大きな音がして、メニュー表が床に落ちた。


「大丈夫!?」


 俺はカウンター越しに身を乗り出した。


「ん。大丈夫……だけど……指に力が、入らなくて」


 彼女は自分の手を見つめた。白く細い指先が、小刻みに震えている。それは寒さによる震えではなく、神経系に直接作用する何かによる強制的な反応に見えた。


「……どうしたの? その震え」


 俺は声を潜めた。痙攣。麻痺。歩行障害。俺の脳裏に、最悪の単語が浮かぶ。薬物だ。脱法ドラッグか、あるいはもっと質の悪い混ぜ物を掴まされたか。


「まだ……指先がピリピリするんれす。紫色の霧を吸っちゃって」


 彼女は呂律の回らない口調で言った。


「紫色の霧……?」


「はい。充満してて、視界が悪くて……息を止めるのが遅れたんだ」


「……クラブのイベント?」


 俺はため息混じりに尋ねた。紫色の煙が焚かれるような、怪しい地下のクラブ。そこで、わけのわからないガスや煙を吸わされたのだろう。


「クラブ……?」


 彼女は首を傾げようとして、ガクンと頭を揺らした。


「ま、似たようなものかな。照明は暗いし、変な汁は飛んでくるし、みんな踊り狂ってるし」


「典型的なバッドトリップだね!?」


 俺は確信した。暗い照明、飛び散る酒、踊り狂う人々。地獄絵図のようなパーティーの光景が目に浮かぶ。彼女はそこに連れて行かれ、何かを盛られたのかもしれない。


 相変わらず、悪い人たちとの繋がりは断ち切れていないようだ。


「身体が痺れて、動かなくなって……危なかった。そのまま連れて行かれるところでした」


「……連れて行かれる?」


「ん。麻痺した獲物を巣穴に引きずり込むのが、あいつらの手口。そのまま美味しくいただかれちゃう」


 薬で動けなくなった女性を担いで連れ去る。卑劣極まりない犯罪の手口だ。


「凛子ちゃん……本当……心臓に悪いことばかりしないでよ……?」


「あ、ごめんごめん。これも作り話。普通に寝不足なだけだよ」


 その割には純度が高い、彼女の口から出る言葉がいちいちリアルで、俺の胃が痛くなる。


「とりあえず、水だけでも飲みなよ」


 俺はグラスにたっぷりと氷水を注ぎ、彼女の前に置いた。


 さらに、気休めかもしれないが、ホットミルクも準備し始めた。胃の粘膜を保護するために。


「ありがとうございます……あ、ストローも」


「震えてますもんね」


 彼女は震える指でストローを口に含み、ちゅー、と水を吸い上げた。その姿は、小動物が必死に生命維持活動をしているようで、見ていて切なくなる。


「ここは喫茶店なのに空気が綺麗だね。紫色の霧も、嫌な匂いもしない」


「禁煙だからね、うちは。空気清浄機もフル稼働してるし」


「単に客が来ないだけじゃないの?」


「ま、それもある」


「ふふっ……だから私は来るんだけどね」


「やだなぁ……売れたら売れたで売れる前が良かったとか言う面倒な人みたいだね」


「けど、この静かな空間だからこその良さはあるよ、絶対に」


「そっか……」


 特に店を畳む予定はないけれど、続ける理由が一つ増えた。


 俺はホットミルクを差し出す。彼女は両手でカップを包み込み、温かさを確かめるように目を閉じた。


 彼女はミルクを飲み、ふぅー、と息をついた。その吐息と共に、体内の毒素が少しずつ抜けていくように見えた。


「ん。美味しい。店長さんのミルク、解毒ポーション入り?」


「スーパーで売ってる成分無調整牛乳。ノンホモのやつね。ま、カルシウムは入ってるよ」


 彼女はふふっ、と力なく笑った。まだ指先は微かに震えているが、瞳には正気の光が戻っている。


 そのまま元気よく伸びをして唸る。


「うあぁ……眠いや」


「宿泊はできないよ」


「ん、なら休憩利用かな」


「ラブホみたいな使い方しないでくれる!?」


「ふふっ……けど、ちょっとだけ寝てもいい? 疲れちゃった」


「まぁ……閉店時間までなら」


「まだあと6時間以上あるでしょ? ガッツリ寝ていいってことじゃん。ありがと」


 ニッコリと笑い、凛子はカウンターに突っ伏した。


 そして、ものの5秒で寝息を立て始める。


 よっぽど疲れていたようだ。


 本当に不思議な人が常連になってしまった。


 怪我は絶えないし、裏社会との繋がりも感じさせる時もある。それなのに本人は至って真っ直ぐだし、擦れた感じもない。


 今だって、すごく無垢な寝顔をカウンター越しに見せている。


「……なんだかなぁ」


 俺が言えるのはそれだけ。


 一応、店の奥からブランケットを持ってきて身体に掛けてあげるくらいしかできない。


 ふわりと背中にブランケットをかけた瞬間、寝言が始まった。


「ん……店長さん。その肉、私が育ててたやつ……じゃんじゃん頼んでいいよ……」


「なんで夢の中で俺と焼肉に行ってるの……しかも奢られてるし……」


 本当、この常連は不思議な人だ。


――――

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SSSランク美少女がボロボロな状態で店に来て癒されて帰っていくだけの話~DV被害者にしか見えないので全力で保護することにしました。ダンジョン探索? ドラゴン? ゲームの話だよね?~ 剃り残し@コミカライズ開始 @nuttai

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