【後編】終章
季節は巡り、冬が訪れていた。 エリザベートが興した新たな男爵領。その荒涼とした丘の上に建てられた、質素だが機能的な館の窓の外には、静かな雪が舞い落ちていた。 執務室の暖炉では、パチパチと心地よい音を立てて炎が揺れている。その柔らかな光が、机に向かう二人の少女の横顔を優しく照らし出していた。
エリザベートは相変わらず、分厚い帳簿の山と格闘していた。 だが、以前と決定的に違うことが、一つだけあった。 彼女のその完璧な横顔を、時折邪魔するように、一房の美しい銀色の髪が、彼女の肩にこてりと乗せられるのだ。
「……エリザベート。少しお休みになってはいかがです? 根を詰めすぎると、眉間に皺が寄ってしまいますわよ」 「……イザベラ様。これは来期の事業計画に関わる、重要な損益分岐点分析(ブレークイーブン・アナリシス)ですの。邪魔をなさらないでくださいまし」
エリザベートはそう冷たく言い放つ。 だが、その声にはもう、かつてのような人を寄せ付けない氷の響きはなかった。 そしてその視線は、帳簿の数字を追いながらも、意識の片隅では常に、自分の肩に寄り添う温かい存在を感じていた。
イザベラはくすくすと喉の奥で笑うと、エリザベートの金の髪をそっと指で梳いた。 「では、せめてこれを。セバスチャンに淹れてもらったのです。あなたの好きな、東方の茶葉ですわよ」
そう言って、彼女は湯気の立つ白磁のカップを、エリザベートの手元にそっと置いた。 その、あまりにも自然な仕草。 エリザベートは何も言わずにそのカップに手を伸ばし、一口含んだ。
芳醇な香りと、優しい温かさが、体中に染み渡っていく。 ふと、エリザベートの手が止まった。 懐かしい味がした。 けれど、それが「いつ」「どこで」飲んだ味なのか、彼女の記憶の引き出しを開けても、そこには空っぽの闇が広がっているだけだった。
(……思い出せない)
胸の奥が、ちくりと痛む。 私が対価として差し出した記憶は、もう二度と戻らない。 かつて、この紅茶を飲みながら、この銀髪の少女とどんな話をして、どんな風に笑い合ったのか。その「幸福な時間」のデータは、永遠に欠損(ロスト)してしまっている。
それは、経営者として見れば、取り返しのつかない「損失」だ。 けれど。
(過去(データ)がないのなら、新規に蓄積(インプット)すればいい)
エリザベートは、カップをソーサーに戻すと、ふと、キーボードを叩く手を止めて、自分の肩に乗せられたイザベラの手の上に、自分の手を重ねた。 イザベラが、驚いたように息を呑む気配がした。
「……イザベラ様」 「な、なあに? エリザベート」 「……少し、ぬるいですわ」 「えっ?」 「紅茶が、少しぬるくなってしまっています。……ですから」
エリザベートは、顔を背けたまま、耳まで赤くして、早口で言った。
「……淹れ直してくださるなら、少しだけ、休憩にしてもよろしくてよ」
それは、彼女なりの、精一杯の「甘え」だった。 非効率で、非合理的で、そしてどうしようもなく人間くさい、時間の無駄遣いの提案。
一瞬の沈黙の後、イザベラが花が咲くように破顔したのが、気配で分かった。 「ええ、ええ! 喜んで! とびきり熱くて、甘い一杯を淹れますわ!」
嬉々として準備を始める親友の背中を見つめながら、エリザベートは小さく息を吐いた。 窓の外では、雪が降り続いている。 世界は厳しく、冷たい。 アークライト公爵が失脚しても、市場の競争は終わらない。隣国の情勢も予断を許さない。私の戦いは、これからも続くだろう。
けれど、今の私には、帰るべき場所がある。 凍えた指先を温めてくれる、紅茶と、この手がここにある。
(……これが、成功(サクセス)、というものなのかしら)
彼女は、帳簿を閉じた。 空白の記憶を埋めるように、これから始まる新しいティータイムの記憶を、心という名の帳簿に刻み込むために。
彼女は、初めて、心からの笑みを浮かべた。 それは、「海鮮男爵」でも「空っぽの女王」でもない。 ただの、幸福な一人の少女の笑顔だった。
(完)
悪役令嬢転生MBA~趣味は事業再生、特技は市場分析ですの~ 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07
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