第十七章:リヒトハーフェンからの独立

 エリザベートの、頭脳は、燃えるような、速度で、回転していた。 目の前で、起こっている、この、不可解な、事象を、理解するために。

 対象:イザベラ・フォン・アークライト。

 現状:公爵令嬢という、全ての、社会的地位、資産、未来の、期待収益を、自発的に、放棄。

 要求:当方、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン男爵の、私的な、パートナーシップを、希望。

 提示された、対価:『愛』。 算出される、期待利益(リターン):ゼロ。いや、マイナス。

(――非合理的。非論理的。理解不能)

 彼女の、MBAとして、構築された、完璧な論理思考、思考回路が、激しく、警鐘を、鳴らしていた。 イザベラの、この、行動は、あらゆる、経済合理性の、原則に、反している。ハイリスク・ノーリターンの、愚行。あり得ない、選択。 だが。 なぜだろう。 握りしめられた、手の、温かさが。 自分を、見つめる、その、サファイアの、瞳の、あまりにも、まっすぐな、輝きが。 彼女の、思考の、根幹を、揺さぶって、やまないのだ。

「…イザベラ様」

 エリザベートは、かろうじて、声を、絞り出した。それは、彼女が、この、数ヶ月、発した、どの、言葉よりも、不確かで、そして、か細い、響きを、持っていた。

「あなた様の、お気持ちは、理解、しかねます。ですが、その、ご提案は、あまりにも、あなた様にとっての、損失が、大きすぎる。お受けすることは、できません」

 それは、経営者としての、最も、誠実な、回答だった。 不良債権と、分かっている、投資案件を、断るのは、当然の、判断だ。

 だが、イザベラは、静かに、首を、横に振った。

「いいえ、エリザベート。あなたには、まだ、分かって、いらっしゃらない」

 彼女は、握りしめた、エリザベートの、手に、さらに、力を、込めた。

「わたくしにとって、最大の『損失』は、父や、家を、失うことでは、ありませんわ。あなたという、光を、失ってしまうこと。それこそが、わたくしの、人生における、最大の、損失なのです」

「……」

「あなたが、全てを、忘れてしまった、あの森で。わたくしは、誓ったのです。今度は、わたくしが、あなたの、光になる、と。あなたが、失ってしまった、温かい、記憶の、代わりになる、と。…ですから、これは、わたくしにとっての、投資なのですわ。わたくしの、人生の、全てを、懸けた、最高の、投資」

 その、言葉は、もはや、エリザベートの、脳ではなく、魂の、最も、深い場所に、直接、響いてきた。 彼女の、胸の奥で、何かが、きしむような、音を、立てた。 固く、錆びついていた、歯車が、無理やり、動かされようとしているかのような、軋轢音。 それは、痛み、だった。 忘れていたはずの、感情の、疼き。 長谷川梓が、一度目の、人生で、殺しきれなかった、心の、残骸。

「――セバスチャン」

 エリザベートは、部屋の隅に、控えていた、執事を、呼んだ。

「はっ」

「至急、父上…リヒトハーフェン辺境伯に、面会の、手配を。議題は、『リヒトハーフェン男爵家の、完全独立について』、と」

 その、言葉に、今度は、セバスチャンが、目を見開いた。 そして、イザベラも。

「エリザベート…? あなた…」

 エリザベートは、イザベラの手を、そっと、解くと、彼女に、向き直った。 その、碧眼には、まだ、深い、困惑の色が、浮かんでいる。 だが、その、奥底には、これまで、なかった、新しい、光が、灯っていた。 それは、『覚悟』の、光だった。

「わたくしは、まだ、あなた様の、仰る、『愛』というものを、理解できません。それは、わたくしの、経営理論には、存在しない、概念ですわ」

 彼女は、正直に、告白した。

「ですが。あなた様という、『予測不能な、最大のリスク(不確実性)』を、このまま、放置しておくことは、わたくしの、今後の、事業計画において、あまりにも、危険すぎる」

 彼女は、にっこりと、微笑んだ。 それは、かつての、リーザの、悪戯っぽい、笑みとは、違う。 だが、あの、冷たい、鉄の仮面のような、無表情でも、なかった。 初めて見る、不器用で、しかし、どこか、人間味のある、微笑みだった。

「ですから、あなたという、最大のリスクは、わたくしの、最も、近くで、『管理(マネジメント)』させていただくことに、いたしますわ。…それが、現時点での、わたくしの、最も、合理的な、判断です」

 それは、彼女なりの、答えだった。 愛の告白に対する、あまりにも、MBA的で、あまりにも、エリザベートらしい、不器用な、『イエス』。 イザベラの、目から、再び、大粒の、涙が、溢れ落ちた。 だが、それは、もう、悲しみの、涙では、なかった。

 数日後。 リヒトハーフェン辺境伯領の、城館。 あの、重々しい、空気が、支配する、父の、執務室で。 エリザベートは、再び、父、ヴィルヘルムと、対峙していた。 だが、今度の、彼女は、もう、父の腕に、甘える、か弱い、娘では、なかった。

「――以上の、理由により、わたくし、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンは、本日をもって、リヒトハーフェン辺境伯家より、完全に、独立し、自らの、男爵家を、興すことを、ここに、宣言いたします」

 彼女の、隣には、イザベラが、凛とした、表情で、寄り添っている。 ヴィルヘルムは、腕を組み、その、巨大な、体で、仁王立ちになっていた。 その、深い、皺の刻まれた、顔には、怒りと、寂しさと、そして、ほんの、わずかな、誇らしさが、複雑に、入り混じっていた。

「…そうか。行ってしまうのか、お前は」

「はい、お父様」

「あの、忌々しい、公爵家の、娘と、共にか」

「はい、お父様」

 長い、長い、沈黙。 やがて、ヴィルヘルムは、深い、深い、ため息をつくと、言った。

「……好きに、しろ」

 それは、突き放すような、言葉だった。 だが、その、声の、奥に、隠された、不器用な、愛情を、イザベラは、確かに、感じ取っていた。

「ただし、一つだけ、覚えておけ、エリザベート」

 ヴィルヘルムは、娘の、碧眼を、まっすぐに、見据えた。

「お前が、これから、歩む道は、我々が、歩んできた道よりも、遥かに、険しく、そして、孤独な道だ。だが、もし、その道に、疲れ、歩けなくなった時は…」

 彼は、一度、言葉を切ると、ぶっきらぼうに、言い放った。

「…いつでも、帰ってこい。ここが、お前の、家であることだけは、生涯、変わらん」

 それは、武骨な、父親からの、最大級の、愛の言葉だった。 エリザベートの、胸の奥で、また、あの、錆びついた、歯車が、ぎしり、と、音を立てた。 彼女は、深く、深く、父に、頭を下げた。 顔を上げた時、その、碧眼には、透明な、膜が、張っていた。 だが、彼女は、それが、何なのか、まだ、理解することが、できなかった。

 こうして、エリザベートは、全てを、手に入れた。 独立した、領地。 莫大な、富。 そして、かけがえのない、ただ一つの、愛。 だが、彼女は、まだ、知らない。 その、輝かしい、成功の、光が、強ければ、強いほど。 その、影もまた、より、深く、より、濃く、彼女の、足元に、忍び寄ってきていることを。 本当の、戦いは、まだ、始まっても、いなかったのだ。

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