白い服の女
青川メノウ
第1話 白い服の女
高齢者施設で働く職員が、五十人もいれば、中には一人くらい〈見える人〉がいてもおかしくはない。
そろそろ定年を迎える、ベテラン介護士の時子もまた〈見える人〉だった。
子供の頃から、そうした感覚が、ほかの人より鋭敏だった。
自分は見えているのに、ほかの人には見えていない、と思うことが度々あった。
いわゆる〈霊〉と呼ばれる存在を。
時子は、今までに実に多くの霊を見てきたが、ホラー映画に出てくるような邪悪な霊には、まだ出会ったことがなかった。
ほとんどの霊は、ただ浮遊しているか、じっとその場に
人を呪い殺すような霊は、存在しているかもしれないが、ごく僅かで、大半は無害なのだ。映画は誇張しすぎている、と時子は思った。
しかし現在勤務する職場に現れる霊に時子は、ほかと少し違うものを感じていた。
それは、白い服を着た女の霊で、彼女を見た後は、必ず施設の誰かが亡くなった。
先日も夜勤のとき、巡回中の廊下で、その霊を見た。
霊は、ある利用者さんの居室へ、壁をすり抜けるようにして、すっと入って行った。
時子はその居室のドアを少しだけ開けて、室内を恐る恐る覗いた。
霊はベッドで眠っている利用者さんの唇に、そっと口づけして、霧のように消えた。
翌朝、その利用者さんは亡くなった。
九十五歳。大往生だった。
苦しまず、微かな笑みさえ浮かべていた。
時子は今の施設に勤務する以前も、ほかの幾つかの施設で働いてきた。
どの施設でも、もちろん人を見送ることが何度もあったが、大半の人は、程度の差こそあれ、苦しみながら亡くなった。
時子たちが懸命にケアしても、実際には、苦痛を長引かせているだけのようだった。
『心肺蘇生などせず、痛みや苦しみを緩和しながら、不安なく穏やかに見送る』
と言いながら、痰が絡んで苦しめば、放っておくわけにはいかない。
窒息死したら、ナチュラルとは言い難いから、速やかに喀痰吸引をする。
尿が出なければ、看護師が尿を排出させるためのカテーテルを、尿道口から入れる。
あんな狭い所に、よく入っていくなあ、と初めて見た時は思ったものだ。
また、医師の指示により、点滴もおこなわれる。
骨と皮だけになった手足に、点滴の針を刺すのは、熟練の看護師でも技術を要する。
刺し直しも珍しくない。
針を何度も刺されるのは痛かろうに。
いくら慎重におこなっても、舌を無理に引っぱられるなんて、本人にしてみたら、つらいだろう。
いよいよ間近となった時、消えかけた意識を呼び戻そうと、肩を叩いて大声で名前を呼ぶ。
よくおこなわれるこの行為も、はっきり言って疑問だ。
『せっかく美しい花畑が見えているのに、どうしてまた目覚めさせる?』
と本人は思っているだろう。
だが、施設側からしたら、すべてがその人のためを思ってのことなのだ。
少しでも苦しまずに、
つまり、どんなことをしてあげても、
『もうつらいのはたくさんだ、早く逝かせてほしい』
という本人の思いが、ひしひしと伝わってくる。
もしこれが、自然界の動物だったらどうだろうか?
吸引も導尿も点滴もなにもしない。それこそ自然ではないだろうか?
そもそも人間だって、アフリカで誕生して以来、そういう時代が長かったはずだ。
当時の時子はそんなことを思いながら、自分のやっている仕事に、よく矛盾を感じていた。
けれども今勤務している施設は違う。
みな安らかに旅立っていく。
あの女の霊のおかげだと、時子は思う。
彼女は死神のような存在かもしれない。
もしそうなら、当然招かれざる客だ。
けれども、人間はいつか死ぬのだ。
だったら、彼女のような存在がいてもいいのではないか、と時子は思った。
時子はこのことを、誰にも話さなかった。
話しても信じてもらえないだろうし、いたずらに妙な噂を流せば、業務に支障が出るかもしれないと思ったから、黙っていた。
その日も時子は夜勤だった。
夕方五時から始まる勤務は、二時間の休憩時間をはさみ、翌日午前九時に終わる。時子は前半の業務を終えて、先に休憩した同僚と交代し、後半に備えて、いつものように仮眠をとった。
時子はすぐ眠りに落ちたが、途中でふと目が覚めた。
胸に圧迫感がある。
誰かが仰向けの自分に、覆いかぶさっている。
目の前に冷たく青い女の顔があった。
あの霊だった。
時子は恐ろしさに身が凍った。
体は金縛りにあって、動かなかった。
叫ぼうとしたが声も出ない。
女の霊は時子に口づけをして、消えた。
休憩からちっとも戻ってこない時子を心配して、同僚が仮眠室に行ってみると、時子は既に息をしていなかった。
時子は一人旅立った。
死因は心不全と診断された。
六十歳間近の体に、連日続く夜勤がこたえたのかもしれない。
介護士は、現在の社会にとって、欠くべからざる職業だが、決して人気のある仕事ではない。
残念ながら、むしろ敬遠されている。
心身共にキツイ労働である上に、薄給のためだ。
現場は人手不足で多忙となり、ただでさえ大きな負担が更に増す。
それでも時子は、幾らかのやりがいを感じていたから、夜勤を引き受けていた。
死の間際、時子がどんなことを思っていたのか、誰にもわからない。
ただ、身体的には苦しまずに逝ったことは、確かだろう。
白い服の女 青川メノウ @kawasemi-river
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