シダーウッドの兎~高岡有は永倉佳樹と友達でいたい

ハナノネ

シダーウッドの兎

 肌にまとわりつくような湿気が、アスファルトから立ち昇っていた。

 夏の朝、高校の校門へ続く緩やかな坂道は、白い半袖の開襟シャツとグレーの薄手スラックスに身を包んだ生徒たちの群れで埋め尽くされている。彼らは門番のように立つ教師へ、ベルトコンベアに乗せられた製品のように律儀に会釈をして吸い込まれていく。

 その流れの中で、高岡有だけが教師に目もくれず、気だるげに歩を進めていた。切りそろえていない前髪は目にかかるほど伸びたままだった。

 有はズボンの右ポケットに手を突っ込み、四つ折りにされた濃紺のハンカチを取り出した。糊の効いた綿の手触りはゴワゴワとしていて、指先に馴染まない。彼はそれを左のポケットへ移し替え、またすぐに取り出すという無意味な動作を繰り返していた。

 不意に、背後から軽い衝撃が肩を叩いた。有が振り返る。

 陽に焼けた肌に、整髪料で無造作に遊ばせた茶色の髪。永倉佳樹が、白い歯を見せて並んでくる。

「有、何してんの?」

 有は手に持ったままのハンカチへ視線を落とした。

「どこしまったらいいか、わかんなくて」

 佳樹は呆れたように目を丸くし、揶揄するような調子で覗き込んでくる。

「てかお前、ハンカチなんか持ってくるキャラだっけ?」

「親に持たされた」

 短く答え、有は邪魔な布切れを鞄のサイドポケットへと乱暴に押し込んだ。

「なあ、それよりこれ見てくれよ。カッコよくね?」

 佳樹がスマートホンを取り出し画面を見せた。そこにはオンラインショップのスニーカーの画像が写っていた。流線形の極彩色のマークがついた、いかにも男子高校生の好きそうなデザイン。

「それいくらするんだ?」

「5万8000円……」

 しょぼくれた佳樹を見て、有は背中を押す。

「ま、バイトでも頑張り給え」

          

 昇降口に入ると、埃っぽい土の匂いと、数百人分の汗の臭いが混じり合った独特の空気が漂っていた。

 薄汚れたスチール製の下駄箱を開け、ローファーをしまおうとしたその時だ。

「知らねえって!」

 悲鳴に近い怒号が、空間を切り裂いた。

 有と佳樹は同時に手を止め、下駄箱の陰から顔を出した。

 薄暗い廊下の奥で、大柄な男子生徒が小柄な生徒の胸ぐらを掴み、コンクリートの壁に押し付けている。大柄な方は三年生の栄村だ。写真部の部長といういかにも文科系の肩書ながら、実際には写真部は不良生徒の隠れ蓑である。栄村の粗暴な振る舞いは校内でも悪名高い。

 栄村は名も知らぬ生徒のズボンのポケットすべてに強引に手を突っ込み、裏地が出るまで引っくり返して何かを探している。

 目当ての物がなかったのか、栄村は大きく舌打ちをすると、小柄な生徒を突き飛ばすようにして手を離した。

 周囲の生徒たちが遠巻きに立ち尽くす中、栄村が肩を怒らせて歩いてくる。誰もが目を合わせまいとする中で、有だけは表情を変えずに歩き出し、栄村とすれ違った。

 一拍遅れて、佳樹が栄村に愛想よく会釈をしてから、小走りで有に追いついた。

「お前、あれ見てよくビビんないな」

 佳樹が感心したように囁くが、有は前を向いたまま淡々と答える。

「おれ関係ないし。お前こそよく挨拶できるな」

「挨拶は人間関係の基本だからな」

          

 教室に入ると、すでに朝の喧騒が満ちていた。

 有は自分の席に着き、鞄を机のフックに掛けた。佳樹はその横に立ち、クラスメイトたちに挨拶をしている。

 そこへ、女子生徒が近づいてきた。確か、田中だったか佐藤だったか。彼女はしきりに前髪を触りながら、頬を紅潮させている。手には、ピンク色の合成繊維で作られた、くたびれた兎のぬいぐるみのストラップが握られていた。

「永倉くん!これ誰のかわかる?」

 上目遣いで尋ねる彼女に対し、佳樹は少し困ったように首を傾げる。

「うーん、知らねえなあ」

 会話の外にいた有が、頬杖をついたまま口を挟んだ。

「西さんのだろ」

 佳樹と女子生徒が、驚いたように有を見る。有は顎で空席をしゃくった。以前、その席の西が鞄に付けているのを見た記憶がある。

「あ……ありがとう。……高岡君。西さん休みだから忘れ物箱に置いておくね」

 女子生徒は礼を言いつつも、明らかに落胆した様子でその場を去っていった。去り際、何度も名残惜しそうに佳樹の方を振り返っている。

 その様子を見て、佳樹がニヤニヤと笑った。

「他人に興味ねえって面してんのによく見てるよなあ。何でそれでモテないかね?」

「俺にはお前がモテる理由がわからん」

 有が即答すると、佳樹は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。

「は?俺が?どこが?」

 白々しい態度に、有は深々とため息をついた。タイミングよく、予鈴のチャイムが鳴り響く。

          

 昼休み。男子トイレから出た有と佳樹は、廊下の手洗い場に並んだ。

 蛇口をひねり、冷たい水に手をさらす。

「いやー食べるとよく出るわー」

 佳樹が下品なことを爽やかに言い放つ。有は濡れた手を振って水を切り、はっとした顔で動きを止めた。

「やべ。鞄にハンカチ入れたまんまだ」

 ズボンで拭こうかと思案した有の目の前に、真っ白なタオル地のハンカチが差し出された。

「俺の使う?」

「わりい」

 有は素直に受け取った。顔を近づけると、ふわりと上品な香りが鼻腔をくすぐった。

 有は手を拭きながら、不思議そうな顔をしてハンカチの匂いを嗅いだ。柑橘系の爽やかさの奥に、深く落ち着いた樹木の香りが潜んでいる。

「なんか……いい匂い?するな」

「香水。姉ちゃんのだけど、ちょっとつけてみたのよ。シダーウッドっての」

 佳樹が得意げに鼻を鳴らす。

「お前がモテる理由、やっぱよくわかるわ」

 有がハンカチを返すと、数人の男子生徒がドタドタと慌ただしい足音を立てて二人の前を走り去っていった。彼らの向かう先には、ただならぬ気配が漂っている。

          

 化学準備室の前は、野次馬の生徒たちで黒山の人だかりができていた。

 開け放たれたドアの前で、生活指導の教師が仁王立ちしている。生徒たちのざわめきは、蜂の羽音のように不快な低音で響いていた。

 有と佳樹が人垣の後ろに到着する。佳樹が背伸びをして中を覗こうとしていると、近くにいた生徒が興奮気味に話しかけてきた。

「ドラッグだって。脱法ドラッグ!写真部のやつらが部室に隠し持ってて、生徒に売りつけてるって。誰かチクったらしい」

 その時、準備室から栄村と教師が出てきた。教師は歯ぎしりをするように顎に力を入れ、栄村を睨みつけている。対する栄村は、口元だけを笑いの形に歪めていた。

「だから、何もないですって」

 その笑顔は明らかに引きつっており、額には脂汗が滲んでいる。

 有がふと後ろを振り返ると、隣にいたはずの佳樹の姿が消えていた。

          

 有が教室に戻ると、教卓の横で女子生徒が首を傾げていた。佐藤だったか田中だったか。彼女の視線の先には、段ボールで作られた簡素な”忘れ物箱”がある。

「あれ?なんで……?確かに入れといたのに」

 箱の中は空っぽだった。

 有は彼女の脇を通り過ぎ、自分の席に着いた。周囲をキョロキョロと見渡すが、佳樹の姿はない。

「そうだ、ハンカチ」

 ついにハンカチを身に着ける決心を固め、有は鞄の中に手を入れた。

 指先が教科書やノートの背表紙に触れる。だが、あのゴワゴワした布の感触がない。

「……どこいった?」

 有は鞄の底まで手を入れて探った。

 五時間目のチャイムが鳴った。

          

 放課後の廊下は、西日が差し込み、すべてを茜色に染め上げていた。

 帰宅する生徒たちの話し声に混じって、吹奏楽部のたどたどしいトランペットの音が響いている。

 有は教員に頼まれた書類の入った段ボール箱を抱え、廊下を歩いていた。

 反対側から、栄村が小走りにやってくる。苛立ちを隠そうともせず、肩を揺らして歩く栄村とすれ違った瞬間、ドン、と強い衝撃が走った。

 有はよろめき、壁に背を預けてどうにか転倒を防いだ。栄村が振り返り、猛禽類のような鋭い眼光で有を睨みつけ、舌打ちをする。

 栄村はそのまま、足元にあった赤い消火器を鬱憤晴らしに蹴り倒し、金属の轟音を残して去っていった。

 転がる消火器と、去っていく栄村の背中を、有はずっと見つめていた。

「おい、有」

 聞き慣れた声に振り返ると、佳樹が歩いてくるところだった。いつもの軽薄そうな笑みはない。

「また雑用委員の仕事か?」

「総務委員な。終わったら一緒に帰ろうぜ」

 佳樹の誘いに、有は少し意外そうに眉を上げた。

「ハンド部は?」

「例の騒ぎで中止」

 芳樹は首をすくめた。

          

 有が教室に戻ると、佳樹が自分の席に座り、鼻歌交じりにスマートフォンを眺めていた。夕陽が彼の横顔をオレンジ色に縁取っている。

「おつかれー」

 有は自分の机の横にかけてあった鞄を机上に上げた。

 教科書を取り出し、鞄の口を大きく開ける。ふと中を見て、有の動きが止まった。

 おそるおそる手を入れ、底にあるものをつまみ出す。

 出てきたのは、濃紺のハンカチだった。行方不明になったはずの、あのゴワゴワしたハンカチだ。

 有はじっとその布を見つめた。

「なんか食ってこうぜ。俺のおごりで!」

 いつの間にか、佳樹が有の傍に立っていた。

 有の視界の端、教室の隅にある忘れ物箱には、ピンク色の兎のマスコットが鎮座していた。人工的な毛並みが、夕陽を受けて微かに光っている。

          

 駅前のチェーン系ドーナツ店は、学校とは違うカラフルな明るさに満ちていた。

 ポップな洋楽が流れ、甘ったるい揚げ油と砂糖の匂いが充満している。

 有がテーブル席で待っていると、佳樹が両手にトレーを持ってやってきた。そこには、毒々しいほどカラフルなチョコレートやスプレーチョコがまぶされたドーナツが山盛りにされている。

「どうよこれ!」

 佳樹はトレーを机の上に置くと、待ちきれない様子でピンク色のリングドーナツを掴み、大口を開けてかぶりついた。砂糖のコーティングが割れる音がする。

 有はうつむいたまま、手を出そうとしない。

「食わねえの?」

 口の端に砂糖をつけた佳樹が尋ねる。

「いくらしたんだそれ?」

「そういうのは聞かないお約束でしょ」

 佳樹は人差し指を唇に当て、ひょうきんなポーズをとった。しかし、有の視線はテーブルの木目に落ちたままだ。

「……今日は色々あったよな」

「ん?まあな、写真部の家宅捜索なあ」

 佳樹は何でもないことのように言い、二つ目のドーナツに手を伸ばす。

「その前にもだ。朝見たやつ。たぶん化学準備室から脱法ドラッグが盗まれたんだ。栄村は客の生徒を疑った。俺たちはそれを見た」

「まじで?あ、これ美味いぜ。ほら」

 佳樹は強引に、チョコレートのかかったドーナツを有の目の前に置いた。

 有は顔を上げず、淡々と続ける。

「チクられたのに準備室から何も出てこなかったのは、既になかったからだ。そしてそれに目を付けたやつがいた。盗まれたドラッグは自分が持ってるぞ。処分してやるから口止め料をよこせと栄村を脅した」

 有は目の前に置かれたドーナツを手に取った。食べるわけでもなく、半分に割り、さらに半分へと割っていく。ボロボロと生地の欠片がこぼれ落ちる。

「そしてその一部は、これの代金になった」

 佳樹の手が、ぴくりと震えた。彼は身を乗り出し、声を潜めた。

「待てよ!俺が……栄村をゆすったって言うのかよ?クスリなんか盗ってねえぞ」

「盗んだのは客の生徒の誰かだ。疑われた仕返しにチクったんだろ。お前じゃない」

「だったらどうやって、自分がクスリ持ってるなんて栄村に信じさせるんだよ」

 有は鞄から、あの濃紺のハンカチを取り出した。

 小さく割ったドーナツの欠片をハンカチの中央に置き、四隅を持ち上げてくるむと、上部をきゅっとひねった。即席の包みが出来上がる。

「こうすればいい。ハッタリだけどな、栄村も今日一日で相当まいってたろうし。バレても栄村はキレるだろうけど、命を取られるわけじゃない。悪くない賭けだったろうな」

 有は、てるてる坊主のような形になったハンカチを持ち上げ、佳樹の目の前に掲げた。

「中身は忘れ物の兎のマスコット。ポケットサイズで、近くの忘れ物箱にあったから。けどお前は自分のハンカチを使わなかった。兎にシダーウッドの香りが移ってしまうから。証拠めいたものは残したくなかったろう。だから代わりに俺のハンカチを使ったんだ」

 佳樹は持っていた食べかけのドーナツをトレーに置いた。

 店内の楽しげなBGMが、二人の間の沈黙を際立たせる。

「なあ、ドーナツ食わないのか」

 佳樹は、泣き出しそうなほど悲しげな笑みを浮かべた。

「俺はさ、お前が金をゆするのに俺のハンカチを勝手に使おうと、別に構わないわけ」

 有はハンカチの包みをゆっくりと開き、中のドーナツの欠片をつまみ上げた。

「でもお前は、おれを巻き込んだことにちょっと罪悪感があったんだろ?

でもさ……その罪悪感を、俺に気づかれないように、こっそり晴らそうとしないでほしい」

 有は大きくため息をつき、佳樹を真っ直ぐに見つめた。

「じゃないと、俺はお前からハンカチ借りようなんて……思えなくなっちまうだろ」

 佳樹の肩が落ちる。

「……すまん」

 うつむいたまま、佳樹の表情は硬い。罪の意識と、友人への後ろめたさが混ざり合った顔だ。

 有は手元のドーナツの欠片を放り込むように口に入れた。甘すぎる砂糖の味が広がる。

 咀嚼して飲み込み、有は言った。

「あーあ、これで共犯か。ほら、さっさと証拠隠滅、隠滅ー」

 佳樹がバッと顔を上げる。

 有が次のドーナツに手を伸ばすのを見て、佳樹の表情にぱっと明かりが灯った。

 彼は深く頷くと、再びドーナツを手に取った。

 有と佳樹は、甘ったるい共犯関係の味を噛み締めるように、夕陽指す店内で黙々とドーナツを食べ続けた。

(了)

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