第8話:エピローグ・継承

深夜三時二十五分。

草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったものだ。

S県K市の郊外、かつて緑ヶ丘団地が存在したその広大な更地には、不自然なほどの静寂が満ちていた。

遠くの国道を走るトラックの音さえ、ここには届かない。まるで、このフェンスで囲まれた空間だけが、世界から切り離され、真空パックにされているかのようだった。


私はフェンスの切れ目をくぐり、敷地内へと足を踏み入れた。

その瞬間、私の視界はモノクロームから、極彩色の悪夢へと反転した。


そこに「彼ら」はいた。

フェンスの外から見えた白い人影たちだけではない。

数百、いや数千の影が、更地を埋め尽くしていた。

半透明の身体をした彼らは、かつての団地の住人たちであり、作業員であり、あるいはもっと古い時代の、髷(まげ)を結った農民や、ボロボロの着物を着た子供たちだった。

工藤が言っていた「六ツ首池」の記憶。

数百年分の死と怨念が、地層のように重なり合い、今夜、この場所に顕現している。


彼らは一様に無言で、私を見ていた。

敵意はない。かといって歓迎でもない。

ただ、私という「鍵」が通り過ぎるのを、じっと待っているのだ。


私は彼らの間を縫うようにして歩いた。

肌に触れる空気が、氷水のように冷たい。

耳元で、ブツブツと何千もの声が囁く。

『痛い』『寒い』『腹減った』『開けて』

それらの声を無視し、私は右手の小指に食い込んだ赤い紐を強く握りしめた。


目指すはD棟跡地。

その中心部、404号室のあった座標が、赤く脈動している。

地面が呼吸をしている。

ズズズ、ズズズという、あの引きずるような音が、地響きとなって足の裏に伝わってくる。


「……来たぞ」

私は震える声で呟いた。

「約束通り、引き継ぎに来た」


赤い光の中心に立つと、そこには直径二メートルほどの「穴」が開いていた。

物理的な穴ではない。空間が歪み、地面が液状化している。

その泥の底から、無数の白い手が伸びていた。

助けを求めているようにも、引きずり込もうとしているようにも見える。


私はリュックサックを下ろした。

中から、相田の日誌、カセットテープ、そして工藤の資料を取り出し、穴の淵に並べた。

最後に、私が持ってきた新品の大学ノートとペンを取り出す。


私は工藤の仮説を実行するつもりだった。

この赤い紐を解き、この穴を強制的にこじ開け、溜まったガスを一気に放出する。

そうすれば、私は助からないだろうが、この土地の呪縛は終わる。


私は深呼吸をし、右手の紐に左手の指をかけた。

固く結ばれた結び目。

それを解こうと力を込めた、その時だった。


『……やめろ』


穴の底から、声がした。

相田の声だ。いや、相田の記憶を持った、泥の集合体の声だ。


『それを解けば、お前も、街も、全て終わる』


「終わらせるために来たんだ!」

私は叫んだ。

「こんなシステム、間違ってる。あんたも、もう楽になりたいだろう!」


『楽に? ……我々は苦しんではいない。我々は、ただ「在る」だけだ』


泥の中から、ズルリと何かがせり上がってきた。

それは、ヘドロで構成された人型だった。

顔の部分には、あのカセットテープの最後にあったように、無数の目が埋め込まれている。

それは相田であり、相田ではないものだった。


『見てみろ』

泥の人型が腕を振るった。


私の脳内に、強烈なビジョンが流れ込んできた。

江戸時代の大飢饉。痩せ細った子供を抱き、涙を流しながら池に突き落とす母親。

戦後の開発工事。土砂崩れに巻き込まれ、生き埋めになる作業員たち。

団地での孤独死。虐待。自殺。

それら全ての絶望が、この土地に流れ込み、渦巻いている。


『これだけの質量だ。蓋を開ければ、K市どころか、県全体が「あちら側」に沈む。現実との境界線が崩壊し、生者と死者の区別がなくなる。お前は、それを望むのか?』


私は言葉を失った。

工藤の計算は間違っていたのか。あるいは、工藤自身も、この絶望の深さまでは測りきれていなかったのか。


『選べ』

泥の人型が言った。

『世界を壊すか。それとも、お前が新たな蓋となるか』


私は立ち尽くした。

周りを取り囲む幽霊たちが、一斉に私を見つめる。

その視線には、縋るような色が混じっていた。

彼らは暴れたいのではない。ただ、この場所で、静かに眠っていたいだけなのかもしれない。

その眠りを守るために、「見守り隊」が必要だったのだ。


私は、右手の紐から手を離した。

そして、ゆっくりと、その紐を自分の首へと巻き付けた。

紐が意思を持ったように伸び、私の首に絡みつく。


「……分かった」

私は静かに言った。

「俺がやる。二代目隊長として、ここを封鎖する」


『賢明な判断だ』

泥の人型が崩れ落ち、元の穴へと戻っていく。

『歓迎するよ。……相田』


その瞬間、私の意識は暗転した。

穴の底から噴き出した赤い光が、私を飲み込んだ。

痛みはなかった。

ただ、自分が溶けていく感覚だけがあった。

指先が、足が、皮膚が、泥と混ざり合い、この土地の記憶と一体化していく。

私は私であり、相田であり、名もなき農民であり、見守り隊だった。


「本日、異常なし」

誰かの声が聞こえた。それは、私の口から出た言葉だった。


***


目が覚めると、私は病院のベッドの上にいた。

白い天井。消毒液の匂い。

窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえる。


「あ、気がつきましたか!」

看護師が駆け寄ってくる。

医師が呼ばれ、私は簡単な診察を受けた。


話を聞くと、私はK市郊外の路上で倒れているところを、通りがかりのドライバーに発見されたらしい。

死因……ではなく、病名は極度の脱水症状と疲労。

外傷はないが、記憶が少し混濁している。

所持品は、リュックサック一つ。中身は着替えと、数冊の古びたノートだけ。


「よかったですね。一時はどうなるかと」

医師は笑顔で言った。

「警察の方も心配していましたよ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって」


私は曖昧に笑って頷いた。

事件? とんでもない。

私はただ、取材に行き、少し無理をして倒れただけだ。

そう、私はライターだ。

モキュメンタリー小説を書くために、古い団地の跡地を取材していたのだ。


数日後、私は退院し、都内の自宅に戻った。

部屋は、出て行った時のままだった。

机の上にはパソコンがあり、書きかけの原稿が表示されている。

平和な日常。

何も変わっていない。


ただ一つを除いて。


私は洗面所の鏡の前に立った。

自分の顔を見る。

少し痩せたが、以前と変わらない私の顔だ。

しかし、その瞳の奥に、私は「彼」を見た。

眼鏡をかけた、神経質そうな男が、鏡の奥から私を見つめ返して、ニヤリと笑った。


右手の小指を見る。

赤い紐はない。

だが、小指の付け根に、赤黒い痣(あざ)のような線が、指輪のように一周している。


私はリビングに戻り、リュックサックを開けた。

中から、七冊のノートを取り出す。

古道具屋で買った、相田の日誌。

そして、私が現地で書いた、八冊目のノート。


私は八冊目のノートを開いた。

そこには、私が書いた覚えのない文字が、びっしりと埋め尽くされていた。


『令和X年X月X日

「継承」完了。

器の状態、良好。

記憶の改竄(かいざん)、および社会への再適応プロセス、完了。

彼は、自分が生きて帰ったと思い込んでいる。

それでいい。恐怖は、無知な方が良質な養分となる』


私の手が震え出した。

これは誰が書いた?

俺か? それとも相田か?

いや、今の俺は、どっちだ?


その時、玄関のチャイムが鳴った。

ピンポーン。

明るい、日常的な音だ。


私はビクリと肩を震わせた。

モニターを見る。

宅配業者だ。

「お届け物でーす」


私は安堵の息を吐き、ドアを開けた。

若い配達員が、段ボール箱を抱えている。

「ハンコ、お願いします」


私はハンコを押し、荷物を受け取った。

配達員は「ありがとうございました」と言って帰っていった。

私はドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをかけた。


そして、ふと気づいた。

今の配達員。

制服の胸元に、名札がなかった。

そして、去り際に彼は、私の耳元で微かにこう囁いた気がしたのだ。

「息、続いてましたよ」


私は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

荷物の送り状を見る。

差出人の欄には、私の名前が書いてあった。

品名欄には、『赤い組紐 他』とある。


私は理解した。

私は帰ってきたのではない。

「範囲」が広がったのだ。

あの団地の跡地だけではない。

私が移動する場所、私が住む場所、そしてこの物語を読むあなたが住む場所。

その全てが、今や「緑ヶ丘団地」の一部となったのだ。


私は箱を開けた。

中には、大量の、本当に大量の、長さ二十センチほどの赤い紐が入っていた。

数百本はあるだろう。

そして、一枚の手紙。


『協力要請

見守り隊の増員が必要です。

この紐を、あなたの知人、友人、そして読者に配ってください。

ルールは簡単です。

「読んだら、紐を結ぶこと」』


私はゆっくりと立ち上がった。

机に向かう。

パソコンを開く。

カクヨムの投稿画面を開く。


私は書かなければならない。

この恐怖を伝えるために?

違う。

「隊員」を増やすためだ。

私一人では、もう抑えきれない。

だから、あなたにも手伝ってほしい。


私はキーボードを叩き始めた。

タイトルは『【実録】S県K市・緑ヶ丘団地における「見守り活動」の記録と考察』。

キャッチコピーは……そうだな。

「本日、異常なし」


書き進めるうちに、私の口元が勝手に吊り上がっていくのが分かった。

鏡の中の相田も、一緒に笑っている。

部屋の隅、天井の角から、赤い服の女性が逆さまにぶら下がって、私の原稿を覗き込んでいる。

床下からは、ズズズ、という音が聞こえる。

もう、寂しくはない。


私は書き終えた原稿をアップロードした。

そして、この物語を読んでいる「あなた」に向けて、最後のメッセージを追記した。


***


ここまで読んでくれて、ありがとう。

面白い創作だったでしょう?

よくできたモキュメンタリーだと、楽しんでいただけたなら幸いです。


でも、ふと気になりませんか?

あなたの部屋の押入れの奥。

あるいは、ベッドの下。

そこに、見覚えのない「赤い紐」が落ちていないか。


もし見つけたら、捨てないでください。

それは、私からの招待状です。

左手の小指に結んでみてください。

きっと、素敵な音が聞こえるはずです。

ヒュウウウッ、という、空気が抜けるような音が。


さあ、時間です。

午後六時のチャイムが鳴っています。

窓を閉めて。

カーテンを閉めて。

決して、外を覗かないで。


私たちは、いつでもあなたを「見守って」いますから。


本日、異常なし。

緑ヶ丘団地・夜間見守り隊 隊長 (あなたの名前)


(了)

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【実録】S県K市・緑ヶ丘団地における「見守り活動」の記録と考察 @tamacco

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